須賀敦子の本を三冊

knockeye2012-06-14

ヴェネツィアの宿 (文春文庫)

ヴェネツィアの宿 (文春文庫)

地図のない道 (新潮文庫)

地図のない道 (新潮文庫)

 今週は日曜日から、須賀敦子の本を続けざまに読んでいる。
 『ヴェネチアの宿』の解説を書いている関川夏央に、須賀敦子自身が「あの4冊は書けてよかった」とつぶやいたことがあるという『ミラノ 霧の風景』、『コルシア書店の仲間たち』、『トリエステの坂道』、『ヴェネチアの宿』のうち、三冊は読んだ。
 『地図のない道』は作家の生前に発表されなかった未定稿で、これを読むと他の作の完成度の高さが改めてわかるし、この人の‘あっちの方向に何かありそうだ’と当たりをつける感じ(曖昧な言い方で恐縮だが)に、私はなにかしら信頼できる気がした。
 『コルシア書店の仲間たち』もさっそく注文した。
 『ヴェネチアの宿』にあるエピソードに、ローマに留学中、安い寮費の代わりに、寮長のマリ・ノエルという修道女と週に二度、日本のことやヨーロッパのことについて話しをすることになる。

・・・とくに私たちが熱をいれて話したのは、これからの西欧と非西洋世界がどういうふうに関わっていくかについてだった。西洋はあまりにも自分たちの文明に酔いしれている。そう言って、マリ・ノエルは悲しそうな顔をした。私が自分の話をすることもあったが、そんなとき、思わず激しい口調になった。自分のなかに凍らせてあったものが、マリ・ノエルのまえにいると、あっという間に溶けていった。どうして、仕事をやめてまでローマに来たか、何が東京で不満だったのか。本を読んだりものを書いたりすることが人間にとってなにを意味するのか。
「そんなことが知りたくてまたヨーロッパに来たんです」
「それはわかるけれど」とマリ・ノエルがいった。「あなたがいつまでもヨーロッパにいたのでは、ほんとうの問題は解決しないのではないかしら。いつかは帰るんでしょう?」
「もちろんです。もう、どこにいても大丈夫って自分のことを思えるようになれば」
「さあ、そんな日は来るのかしら」
「わからないけれど」
「ヨーロッパにいることで、きっとあなたのなかの日本は育ちつづけると思う。あなたが自分のカードをごまかしさえしなければ」
 修道女のマリ・ノエルが、フランスでは名の知れたアラブ学者の家に生まれたこと、ヴェトナムが独立するまで、南部の有名な保養地ダラットの修道院にいたことなどを、私は知った。
 フランス人の個人主義を、彼女はきびしく批判することがあった。
「フランス人はつめたすぎる。私たちは生まれつきのジャンセニストなのよ。自分にきびしいあまり、他人まで孤立させてしまう」
「でも」反論せずにはいられなかった。「あなたはフランス人だから、そんなふうに個人主義を平然と批判できるのだと思います」
私の意思を超えて言葉が走った。
「あなたには無駄なことに見えるかも知れないけれど、私たちは、まず個人主義を見きわめるところから歩き出さないと、なにも始めたことにならないんです」

 『ヴェネチアの宿』はとりとめのない回想の姿をしながら、正確なキューに撞かれたビリヤードの手玉がしずかに次々と的玉をポケットに沈めていくように、日本とヨーロッパの人々の姿をあざやかに照らし出していく。
 冒頭の章では、突然眼の前に開けたフェニーチェ劇場の広場の明るさにたちすくむ。

・・・とうとうここまで歩いてきた。ふと、そんな言葉が自分のなかに生まれ、私は、あのアヴィニョンの噴水のほとりから、ヴェネツィアの広場までのはてしなく長い道を、ほこりにまみれて歩きつづけたジプシーのような自分のすがたが見えたように思った。

 『ヴェネチアの宿』は、巡礼と道行きの物語だといっていいのだろうか。それでは、すこし型にはまりすぎているというなら、歩くことについての問わず語りだといってもいい。
 思想を実践として歩き続けた人にだけ、目にすることのできる景色がきっとあるのだろうと思う。
 ちなみに文春文庫の表紙は、船越桂。白水社Uブックスの方は、有元利夫かと思ったらちがってた。