vinyl record と、テレビ離れと、デモについて

knockeye2012-07-05

 なぜか週刊アスキー大槻ケンヂが連載を持っている。「〜40代で向き合う、人生の宿題〜」というサブタイトルで、毎回、ロートルのロッカーたちをゲストに迎え、来し方行く末、在りし日のことどもなど対談しているわけだが、今回のゲストはJUN SKY WALKER(S)の寺岡呼人で、これが面白かったので、ちょっと冒頭の部分を紹介する。

寺岡 アメリカでは、そろそろCDはなくなるって言われてますよね。配信がとってかわると。それに、驚いたんですけどアナログレコードのシェアが37%までいったそうですよ。
大槻 え、レコードが?
寺岡 みんな新譜をアナログで出して、そのなかにダウンロード用のコードが入ってるんですよ。だから、“モノ”としてはCDよりアナログがほしいと。
大槻 ジャケがほしいのかな?
寺岡 うん。ジャケと、“モノ”としてはアナログレコードがほしくて、音としてはiPodで聴けるデータがほしいんですよ。
大槻 それって、どういうジャンルのレコードですか?黒人ミュージシャンの音楽とか?
寺岡 いや、ぜんぜんふつうにレディー・ガガとか、ポール・マッカートニーもこないだ出しましたし。だから、最近レコードプレーヤーの売れ行きも上がってるんだそうですよ。
大槻 へえ、そうなんだ!

 このあと、レコード盤とCDの音が、実際に体感として違うという実証実験などに話が及ぶのだけれど、私として‘むむむ’と思ったのは、事実上、データがそれ自体、独立して流通する今という時代、寺岡呼人のいう“モノ”はもはや‘データの容れ物’としての実用性を問われなくなって、“モノ”もまた、データから独立した、別の魅力を問われるというところ。言い換えれば、‘モノ’もまたデータなのである。
 それはつまり、ソニーは言うに及ばず、マイクロソフトやグーグルが凋落する一方で、アップルが一人勝ちするのは、iPhoneやiPadの‘モノ’としての魅力が、それを通じてやりとりされるデータと無関係に、圧倒的だからだということになる。iPadはモノであると同時にデータなのだ。それは、前にも書いたけれど、マクドナルドがマクドナルドという食い物であると同時に、多分それ以上に、マクドナルドというデータであるのと同じだ。
 上の雑誌とあい前後して、岸博幸が、マイクロソフトとグーグルがほぼ同時に、自社製のタブレット端末を発売することについて、

・・・ここで、ハードとソフトの融合とは、持ち運びできる端末(タブレット型端末、スマホ)とネット上のプラットフォームの融合と同義であることに留意してほしい。
(略)
ついこの前までネット・ビジネスで勝ち残るためにはプラットフォームでのシェア拡大がもっとも重要であったが、モバイル(スマホタブレット型端末)の普及に伴い、今や端末、つまりハードの重要性がプラットフォームと同じくらいにまで高まったのである。

として、ネット上で、競争のパラダイムシフトが起こっていると指摘している。
 上の二つの例に加えて、去年の地デジ化以降、堰を切ったように始まったテレビ離れにも同じようなことが言えるのかもしれない。
 放送関係者は、視聴者は放送を見ていると思っていたわけだが、実際には視聴者は、ハードとしてのテレビを見ているに過ぎなかった。私の例で言えば、去年の7月でテレビが映らなくなった、じゃ、見ないわ、という、しごく単純な顛末に過ぎず、あれから1年、まったくテレビを見ていないし、見ないでいると、ますますどうでもよくなる。NHKの受信世帯が九万世帯減少したということをみても、こういう人は多いと思う。
 スカイツリーロンドン五輪、まるで、東京タワーと東京オリンピックに湧いた60年代みたいな戦略が、はたしてうまくいくだろうか。
 それで、これを書きながら、私が何を考えているのかというと、デモのことなのである。
 数万から数十万といわれる官邸を取り囲むデモのあり方は、おそらく、テレビ離れと無関係ではない。
 オキュパイ・ウォール・ストリートのデモが、デモの主張が曖昧な一方で、デモの背景としてのSNSの存在が確かだったのは記憶に新しい。
 今回日本で起こっている大飯原発再稼働をめぐるデモも、実は、その内容よりも、このデモのなりたち、ありようといった‘形式’の方が、多分、より重要だと思う。大飯原発をめぐる議論は、ほぼ取るに足らない。そこに目を奪われると、時代のパラダイムが変わりつつある節目を見逃すことになるだろう。
 変わりつつある。どう変わるか、誰が断言できるだろうか。