小林信彦の連載があるので、週刊文春を購読している。
で、そのついでに、いろいろなネタを拾ってしまうわけだが、今回の映画評に、先週見た「ラム・ダイアリー」が取り上げられていて、おすぎ(映画評論家)が、‘何か起こるか期待しながら見たけど肩すかし、びっくりするほど何もなく、なんでこんなの作ったかわからない’といったことを書いていて、こっちがびっくりする。
「ラム・ダイアリー」の原作は、‘GONZO’ジャーナリスト、ハンター・S・トンプソンの、半自伝的な小説なのだけれど、これが出版されたのは、トンプソンの自宅を訪ねたジョニー・デップが、何十年もほこりをかぶっていた原稿を発見したことがきっかけとなっている。
ジョニー・デップは、トンプソンが67歳でピストル自殺した時、本人の生前の希望をいれて、遺灰を大砲に込めてぶっ放す葬儀を執り行った。
今回の映画も、デップ自身が率いる製作会社“インフィニタム・ニヒル”のデビュー作なのだ。
もちろん、映画を観るにあたって、こうしたコンテキストを知らなければならないというつもりはない。たとえば、「裏切りのサーカス」の鑑賞に、米ソ冷戦どころか、ロシアがかつてソ連だったことさえ知らなくても、充分楽しめるはずだと私は思う。しかし、最低条件として‘楽しむ感覚を持っていること’は必要ではないだろうか。
「ラム・ダイアリー」は、きれいな海と、いい女と、かっこいいクルマと、いい音楽と、変な連中がでてきて、プエルトリコの安酒をかっくらっている。それだけで充分楽しい。ハンター・S・トンプソンがこの原作を出版しなかった気持がわかる気がする。楽しすぎるからだ。
ジョニー・デップは、こういう楽しすぎるものを出版してしまった責任として、これを映画化したのである、と私は思う。
これは、物書き志望の男が、自分のスタイルを発見する(いささか奇妙なエピソードではあるが)ひと夏の物語、船出の歌、トンプソン劇場の序曲なのだ。そして、もちろん、哀悼なのである。
だけど、こんなことは、あの映画を観た人や観る人にはいうまでもないことなので、これを私がまた書いているっていうのは、昨日書いたことと符合しているような何かを感じたから。週刊文春の映画評子のなかでは、おすぎだけがテレビタレントなのである。
「ラム・ダイアリー」を観て、‘何もない’とは。
テレビという圧倒的に受動的な媒体が、人から奪ってきた感受性みたいなことをまざまざと感じさせられた。
ちなみに、「クレイジー・ホース・パリ 夜の宝石たち」の評もあって、斉藤綾子が激賞している。女好きだからね。