ストラスブール美術館展

knockeye2012-07-22

 関東地方のこの夏は天候不順で、きのうの横浜は長袖の人がほとんどだった。私も長袖のシャツにジャケットを重ねていたが、それでもちょっと薄ら寒い。
 きょう横須賀美術館に出掛ける気になったのは、その寒さも理由のひとつ。というのは、あの美術館は、「水着での入館はご遠慮下さい」などという張り紙がしてある。道向かいが海水浴場で、葉山の美術館もそうだけど、海辺の美術館はアクセスが不便で、道中の暑苦しさが加わる夏は敬遠してしまいがち。それで、こないだまでやっていた国吉康雄もパスしてしまったのだけれど、きのう、薄ら寒い京急のホームでこの展覧会のポスターを見ているうちに、「いいか、この寒さなら」となったわけ。
 馬堀海岸駅前のバス停では、こぬか雨が音も立てずに降っていた。海水浴に出掛ける家族連れもバス待ちしていたのだけれど、「罰ゲームみたいになりそうっすね」とか半分笑えない感じの冗談を飛ばしていた。そのひとの携帯に電話が掛かってきて、「まじっすか。そんなにいただけるんですか!」とかいうので、‘いただく’とか‘もらえる’とかの言葉に弱いわたしとしては、つい耳をそばだてたのだったが、電話を切るなり、子供たちに、「おい、カブトムシの幼虫20匹ももらえるってよ」という。世の中は夏休み。
 ストラスブール美術館展を見て回るうちに、記憶が甦ってきたのは、アルフレッド・シスレーの<家のある風景>を見た時。この絵は以前、Bunkamuraで観た。あの時の展覧会も、事実上、ストラスブール美術館展だった。
 一瞬、「あれ?やっちゃったか?」と思ったけれど、どうも展示作品はあのときと大きく違っているようで、ひとしれず胸をなで下ろしたり。
 しかし、記憶が甦ってみると、逆にちょっとおもしろくなってきたのは、Bunkamuraでは一点しかなかったウジェーヌ・カリエールの作品が何点かまとめてあって、あのときの解説では「ターナーの影響・・・」みたいなことが書いてあったのだけれど、今回も特にターナーらしくはなく、セピア色に統一されたアウトフォーカスな絵で、まったく独特な画風だと思う。

 ピエール・ボナール静物画が一点。
 ボナールの絵の前に立つといつもとまどいを覚える。目も眩むほどに光り輝いている。ところが、その光の源に手を伸ばそうとすると、そこには何もない。そんな感じ。光はようやくわたしたちの目に到達したけれど、とっくに消失している星のような。ボナールの色彩に対する執念は、ものの色彩以外の性質、奥行きであったり、手ざわりであったり、匂いであったり、また、たとえば果物であれば、それがやがて腐っていく、花であれば、やがてすがれていく、そうした時間性をもまったく無視して、ただ、自分の目に、対象が投げかける色彩だけしか存在しないかのよう。
 しかし、実はそれが正しいのかもしれない。わたしたちの視覚は二次元の色面しか捉えていないはずではないか。それが冷たそうとか、固そうとか、甘そうとか、その遠近感さえ、脳のなかの二次的な処理にすぎない。ボナールが色彩に取っている態度がラディカルであるからこそ、その絵の前に立つと、いつも胸がざわめくのかもしれない。

 今回、発見だったのは、フランシス・ピカビア。この<女性の肖像>は、写真を模写している。横尾忠則大竹伸朗ジョゼフ・コーネルなど、イメージが氾濫しいる時代の感覚を共有していると思う。
 

 特別展の他に、所蔵品展にも知らない画家に発見があった。
 矢崎千代二という画家が昭和9年に描いた<バタビア>というパステルがよかった。また、小特集を組んで展示されていた、朝井閑右衞門という画家の昭和10年の作品、<東京十二景の内>の夜景もよかった。
 また、一点だけだけれど、伊藤久三郎という人の昭和6年に描いた<窓辺>は、タテ72.8×ヨコ90.2というサイズの絵なんだけれど、こういう絵を飾る都市生活が、そのころの日本に形成されつつあったんだなと納得できる。昭和モダニズムを実感させてくれる。

 ちなみに、ストラスブール美術館展はこのあと愛媛と静岡に巡回するそうだ。