「ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳」

knockeye2012-08-05

 土曜日の続き。
 午後は新宿のK’sシネマで「ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳」を見た。
 報道写真家のドキュメンタリー。
 映画だから、当然ながら絵が動いているのだけれど、福島菊次郎の撮ったスチル写真が画面に大写しになるたびに、それまでの動画がその一枚に吸い取られてしまう。モノクロの音のないスチル写真一枚一枚が、映画全体をはるかに凌駕している。
 報道写真家としての出発点となった「ピカドン ある原爆被災者の記録」は、原爆症で奥さんを亡くした後、みずからも重い原爆症をわずらいながら、極貧のなかで六人の子供たちを養った中村杉松という人の、1951年から1960年まで、十年にわたる家族の記録だが、最初、知人を介して中村杉松を訪ね、子供を連れて歩く後ろ姿を撮ろうとカメラを構えた時、振り向いた中村と目があった。そのときシャッターが切れなかった。
 その後、写真が撮れないまま、通い詰めるが、最初の訪問から三年後、中村の方から「自分を写真に撮ってくれ」と請われる。土下座して泣いて頼まれたという。
 請われて写真が撮れるなら、請われなくても撮れる。請われて写真を撮るからには、覚悟が必要だったはずだ。
 写真の残酷さは、そこにあるすべてが写る。真実などという、甘い夢など軽く嘲弄して、すべてが写る。苦しさが写る、貧しさが写る、一瞬の喜びのはかなさも写る。自分のすべてが鼻先に突きつけられる。
 中村さんの葬儀に訪ねた福島菊次郎に、こどもたちは「何しに来た!帰れ」と罵声を浴びせた。
 この写真は中村との共同作業だと感じていた福島菊次郎にとってこれはショックだった。その後の様々なことより何よりそれがいちばんショックだったと語っていた。
 この中村との写真で、シャッターを切るべき時にシャッターを切る勇気と、その結果を我が身で引き受ける覚悟を、福島菊次郎は身につけたのだと思う。
 ヒロシマからフクシマまで、ある意味ではこの映画でわたしたちは日本の戦後を知る。それは、そのようなシャッターの瞬間に、立ち会うことができるからである。