「死刑弁護人」、『ブルックリン・フォリーズ』

knockeye2012-08-13

ブルックリン・フォリーズ

ブルックリン・フォリーズ

 ジャック&ベティで「汚れた心」を観た日曜日に、「死刑弁護人」も観た。安田好弘弁護士のドキュメンタリー。
 この夏のジャック&ベティの番組は充実していて、上のふたつの他に「ミッドナイト・イン・パリ」、「裏切りのサーカス」、「きっとここが帰る場所」、などなど、わざわざ東京のあちこちに出向いている映画が、すこし待つと流れ着く。
 移動の手間が省けるし、会員になればすこし安くも上がるし、6本観ると1本只になるし、と考えると、ここで観られる映画はなるべくここで観る方が効率的かも。乞い願わくは、私にそのような計画性のあらむことを。
 改めて肝に銘じなければならないと思うことは、国家権力なんてものは、上方落語の「千両みかん」みたいなもので、腐ってないのが奇跡。
 死刑廃止に反対している人たちは、自分たちの生殺与奪の権利を、官僚連中にゆだねてしまって、どうして平気なのか、それどころか喜々としているのか、私にはよくわからない。
 自分は罪を犯していないから関係ないと思っているのかもしれない。でも、無実の罪に問われることが、とりもなおさず「冤罪」なんだし。
 それとも、結婚詐欺に引っかかる女みたいに、「私だけはこの人に愛されている」と思っているのかもしれない。この場合の‘この人’は‘国家権力’だが、こう書いてみると、本来システムにすぎない国家に、擬人化、あるいは神格化、ともいえる、由来のない価値観をくっつけてしまう心の動きは、国家主義者全般の心理を理解する手助けになるのかもしれない。
 ポール・オースターの『ブルックリン・フォリーズ』を読んだ。
 9.11前夜のブルックリンが、実はこの小説のメインテーマだと言ったら言い過ぎだろうけど、読み進みうちに、吉田健一の『東京の昔』を思い出してきた。
 テロとの闘い以降、NYの人たちが決定的に失った生活のスタイルがあるかどうか、そこにくらしているもの以外にわかるはずがないが、文化がその程度に壊れやすいのはまちがいなさそうだし、たとえ失われていてもいなくても、それを書き残しておく価値はあるはずで、そして、それができるのは小説だけだろう。
 ‘国家の大義’などという、ありもしないもの、もしあったとしても役人の肥だめにしかならないものを、朝食をくう店で毎朝みかけるウエイトレスのお尻といった、たしかにあるものより価値があると思う奴は、はっきりいってアホ。そういう奴がふりまわす‘正義’なんかを真に受ける奴は、それにわをかけたアホ。
 福島菊次郎の映画をみたとき、ひそかに見直したのは、昭和天皇の頭の良さだった。「戦争責任なんて言葉のアヤだ」とか言ったそうだ。福島菊次郎は、従軍していたのだから怒って当然だが、もはや戦後とすら言えない時代に生まれた私としては、この言葉はまったく事実そのままだと思う。事実そのままを口に出せる人はやはり頭がいいと思う。
 責任は‘ある’か‘ない’か、よりも‘とる’か‘とらない’か、で、‘ない’責任も‘とる’ことはできるし、‘ある’責任を‘とらない’やつらもいる。
 私は昭和天皇に戦争責任があったとはちょっと考えにくい。ただ、その責任をとることができる立場にはあった。むしろ重要なのは、天皇が戦争責任をとることで、‘ある’責任を‘とらない’で済む奴らがいたことだろう。
 天皇制の問題点は、本来、文化的に定義されるべき天皇が、政治的に定義されているために、この国で政治の責任を論じる時に、いつも文化論にすり替えられてしまうことだと思う。
 たとえば、去年の原発事故でも、その責任は正式な文書のなかでさえ‘日本文化’のせいにすり替えられる。そして、実際に責任のある個人はその名を特定されることさえない。責める側も守る側も、けっこうそれで納得しているらしく見えるのは、島国特有の甘さであり甘えであろうと思う。