村山知義、花森安治、宮本常一、岡本太郎

knockeye2012-08-25

 世田谷美術館で開催中の村山知義大回顧展を覗いてきた。
 大正から昭和初期、日本の前衛芸術の旗手であった人だそうだが、絵には特に強い個性は感じなかった。むしろ、ダンスパフォーマンスとか舞台装置など、演劇の方に貢献があった人ではないかと思う。
 いうまでもなく、前衛という価値はあっという間に色あせる。前衛が懐古の色に染まっても、作品の価値が輝き続けないなら、ただ、時代の波に乗ったというだけのことだろう。とくに、「日本の」というカギカッコ付の前衛となると、じっさいどんな価値だったのか首をかしげたくなる。
 村山知義の結婚を報じる、新聞かなにかの記事が展示されていたが、彼の‘ブーベンコップ’という、いわゆるおかっぱ頭をとらえて、「いずれが夫で、いずれが妻?」とか、実にくだらない記事。当時の社会の程度の低さというか、芸術を受け入れる側の、端的に言えば、貧しさをむしろ実感させられた。
 何度も特高警察に逮捕されているが、この程度のことが、どうして彼らの気に障ったのかを考えると、‘愛国’という心理のからくりがみえてくる。愛国心というのは免疫系の暴走のようなもの。花粉症とおなじで、自我の定義が肥大化して、本来攻撃する必要のないものまで排除しようとする。いいかえれば、愛国心は幼稚な自己防御反応なのである。
 こないだなにかで読んだが、差別は、ある程度までクスリで抑制できるそうだ。クスリで何を抑制するのかというと、恐怖心だそうだ。過度の恐怖心を取り除いてやると、差別心理が弱まる。高度成長と日米安保の温室でもぬくぬく育ったネトウヨ連中が、お外が怖くて怯えているのはわかる気がする。
 しかし、ふりかえれば、このころの日本の前衛もまた、われらが島国特有の、いわゆる‘洋行帰り’の末裔にすぎなかったろう。絵を観るかぎりは、前衛と言うほどのことはない。悪くもないけど、そのへんにある程度の絵だと思う(絵だけの話だけど・・・。演劇のことはテイストがないので)。
 絵はむしろ肖像画とか絵本の挿絵の方がよいと思う。繰り返しになるけど、絵だけで言えばで、じっさい、絵本画家としては戦後も長く活躍したようだが、ただ、アバンギャルドの部分を抜きにして村山知義という人を語って意味があるのかというと、それは違うと思う。
 ドイツで新しい芸術にふれた感動を日本で実践しようとしたその思いに嘘はなくても、そのとき、村山知義に日本の社会が見えていたかということが言いたいので、もし見ていなかったとしたら、それは、彼の前の世代の‘洋行帰り’の精神と変わらないと、戦後に生きている私には、そう言う権利か義務か、そのようなものがあると思う。
 その意味では、同じ世田谷美術館で、「花森安治と『暮しの手帖』」という展覧会が同時開催されているのは示唆的だ。
 戦時中、上官に言われた
「おまえたちのかわりは、一銭五厘あれば(つまり召集令状のハガキ一枚のねだん)、いくらでも補充できる。おまえたちの命は一銭五厘だ」
という言葉が花森安治の出発点になっている。
 国の政治や官僚や既得権益やの、支配構造に無批判でいるうちに、国は、わたしたちの命を、一銭五厘で蹂躙してしまう。二度とそうはさせないという思いが、暮らしの手帖の創刊につながっている。わたしたちの愛すべきは、「国」ではなく「暮らし」なのである。「国」に一銭五厘で「暮らし」を売り渡すバカが愛国者だろう。
 この日は小田急沿線シリーズ、向ヶ丘遊園でおりて岡本太郎美術館に「記憶の島 ― 岡本太郎宮本常一が撮った日本」 展を観にいく。
 宮本常一は、日本中をくまなく歩いて記録した民俗学者、フィールドワーカーだが、もしバイクで旅をする趣味の人なら、賀曽利隆の師匠といった方がとおりがいいかもしれない。賀曽利隆のあの旅の根底には宮本常一がいる。賀曽利隆は、バイクツーリストのアイコンでもあるが、食文化研究家としても知られている。賀曽利隆について書き始めると、脇道にそれてもどってこられないのでやめておくが、賀曽利隆写真展なんていうのもあってよさそうだけど、私のアンテナにはひっかからないだけで、どこかであるのかもな。
 岡本太郎にも、沖縄から東北まで、日本中を旅して写真を撮りまくっていた時期がある。今回、岡本太郎美術館学芸員さんが、宮本常一岡本太郎の旅の軌跡を重ね合わせてみようと思いついたのは、ちょっと卓見だったのではないか。
 このふたりの旅は厖大なので、網羅するというわけにはいかないのだけれど、それでも、一端なりとも垣間見えるし、それに何より楽しい。写真ていうのは、プロの写真だから面白いとは限らないのは、こないだのワタリウム美術館の写真展にもまったく同じことが言える。歴史の天使。
 わずか半世紀の間なのに、失われたものが山ほど写っている。しかし、同時に、これらのもののいくつかは取りもどすことができる、あるいは、シェークスピア冬物語みたいに、再生することができるとも感じる。過去が写っている、でも、希望も写っていると思う。
 これらの写真を見ていると、‘小泉純一郎竹中平蔵のおかげで格差社会になった’などという、オートマチックな社会観が、いかに薄っぺらかすぐにわかる。ここには豊かな‘差異’が満ちている。これらの‘差異’をブルドーザーで均一にしたからと言って、なぜそれが幸福だと思うのか。何という幼稚で狭量な排他主義だろうか。
 バカバカしい格差社会論を展開した人たちの最大の欠陥は、小泉のせいで格差社会になったと思ったその単純さではなく、格差のない社会が善だと思った排他性にある。格差を悪だということはとりもなおさず、自分と同じであることが善で、自分と違うことが悪だという差別主義に他ならなかった。