『トゥルー・ストーリーズ』『女の二十四時間』

knockeye2012-09-01

トゥルー・ストーリーズ (新潮文庫)

トゥルー・ストーリーズ (新潮文庫)

 『幻影の書』を読み終えた勢いで、こんどはもうすこし軽いもののつもりで『トゥルー・ストーリーズ』を手に取った。
 このエッセー集は、ポール・オースター自身が、日本で次にエッセイ集を出すならこうしてほしいと、自分で目次を組んだものだそうで、英語圏でこの原書にあたる本は存在しない。
 2004年に出版されたものだが、最後の「地下鉄」というみじかいエッセーを読んだとき、わたしは、東日本大震災直後のことをなまなましく思い出した。
 具体的に言えば、まだ鉄道も通常ダイヤに復旧していなかったそのころ、海老名駅前を歩いていると、募金を呼び掛けるのか、東北のものらしい和太鼓を、祭装束の子供たちがたたき始めた。
 その太鼓の音が鳴り響くと、あの歩行者デッキを行き交う人たちがみな、それが止まれの号令であるかのように立ち止まり、そのまま動かなくなった。なかには階段の手すりに手を置いたまま、目を閉じて耳を澄ませている人もいた。それだけだが、奇跡のような瞬間だった。
 そのとき、人々のこころにあったものを、‘愛国心’に、すり替えようとするものが、どこの国にも必ずいる。いうまでもなく、2002年のアメリカで‘愛国心’をよりどころとしたのはジョージ・W・ブッシュだった。
 ジョージ・W・ブッシュが、テロとの戦争に乗り出したあと、ある詩の雑誌の表紙にこう書かれていたそうだ。
“USA OUT OF NYC(アメリカはニューヨークから出て行け)”
 当時、作者は、ニューヨークが独立都市国家になる可能性について、友人たちが話しあっているのを何度も耳にしたそうだ。
 現実にはもちろんありえないが、しかし、実体としては、すでに実現しているといえるのかもしれない。
 グローバリズムが進むと、国家の価値が相対的に希薄になり、都市の存在感が重くなる。政治の機能としての国家が現実に合わなくなり、都市の機能がそれを代替しはじめる。歴史を見ればむしろ自然かなと思える。
 橋下徹には、そういうことを期待したのだけれど、“JPN OUT OF OSAKA”とか“JPN OUT OF TYO”というわけではないらしい。もちろん、ニューヨークにしたってジュリアーニがそういったわけではない。
 サルマン・ラシュディについてのエッセーを読んでいて、これは9.11どころではなく、1988年の事件だけれど、考えてみれば、今、どの国によらず‘愛国者’連中がやっている個人攻撃は、イラン政府がサルマン・ラシュディに対して行っていることとまったく同じだと気がついた。
 あの事件の当時、イスラム教についてどんな感想をもったかを思い出して、ふりかえって今この国や韓国、中国で、自分より若い連中が猿みたいにひっかき合っている姿を見るにつけ、私個人としてはさすがに笑わざるえない。なぜなら、私は、「若い」ということに肯定的な意味を認めていた世代に属しているから。この幻想はいつのまに過去に追いやられたか。いずれにせよ、ネトウヨという連中を見ている限り、若いという属性は、青いをとおりこえて、‘アホい’とか‘むさくるしい’とか‘貧相くさい’とかのイメージと結びついているといわざるえない。
女の二十四時間―― ツヴァイク短篇選 (大人の本棚)

女の二十四時間―― ツヴァイク短篇選 (大人の本棚)

 ツヴァイクの短編集。
 児玉清がお気に入りだったということで、彼の死後出版された『チェスの話』の評判がたぶんよかったのだろう。それに続く第二弾。
 個人的には、『チェスの話』よりますます好きかもしれない。
 表題作もいいけれど、最後の「圧迫」がよかった。
 戦争を逃れてスイスにいる画家の、三日間ほどのできごと。これを読むとツヴァイクの短編作家としてのすごさがわかる。
 オススメ。