上のふたつの指摘しているのは、習近平がしばらく公式の場に姿を見せなかったのを、健康上の理由であるとは、すくなくともアメリカは信じないだろうという点と、であれば、反日デモの背景にあるだろう中国の政治に、アメリカは決定的に警戒感を抱いているだろうという点。
仮に中国の暴動を大きく取り上げてしまうと、2つのニュースは余りにも「同時進行」であり、例えば日系スーパーや日系企業の工場への放火や破壊行為、暴徒化した群衆といった「映像」がリビアの暴力や、エジプトでの群衆のイメージと「重なって」しまうということがあると思われます。
とあるが、事実、重なっているのではないか?
アメリカのオキュパイ・ウォール・ストリートのデモ、日本の反原発デモ、アラブの反米デモ、中国の反日デモとならべてみて、これを仲間わけしてみようとしたらどうなるか。
今週の週刊文春に、宮崎哲弥はこう書いている。
表現の自由は宗教権力との闘争において形成された。自由社会の先覚者たちは、何よりも「神への冒涜」を断罪する勢力と戦ったのだ。だから、これは表現の自由の「限界」どころか、まさに「本丸」なのである。
(略)
表現の自由は、一つの宗教が個々人の意思を超えて社会全体を覆い尽くしてしまうのを防ぐため設けられた相対化装置のようなものだ。また宗教は絶対的な価値を説くものだから、一旦宗教同士で対立が生じると際限がない。凄惨な宗教戦争を経たヨーロッパの知恵がここに反映されている。つまり表現の自由は、信教の自由の前提でもある。ここで安易に宗教側に譲歩すれば前近代の闇に逆戻りしてしまいかねないという危機意識が西欧には息衝いている。
で、ふりかえって、わたしたち日本人はどちらの側にいるのか。先に挙げたデモを見る限り、市民の意識は間違いなく西欧の側にいると思われる。
しかし、すくなくとも「天皇は神聖にして侵すべからず」といっていた戦中の日本は、イスラムの側にいた。そうした国家観の結末は、ヨーロッパの宗教戦争の凄惨にくらべてけっしてましではなかったはず。天皇を神聖と思うか思うまいかは個々人の自由でなくてはならない。天皇といえども、少なくとも表現の上では、‘侵してよい’存在でなくてはならない。
もし、日本が戦中同様な全体主義の国であるならば、反日デモは正当だということになる。西欧の側にいるのは中国だということになる。
ところが、反日デモが中国の為政者たちに煽動されたものであるとすれば(そしておそらくそう思わないものはないのだが)、価値観の強制という点で、中国はイスラムと同じ立場に立っているということになる。反日デモのややこしさはここにある。
私たちの国が、子供たちに国歌斉唱を強制する政治家を支持する国なのも事実である。反日デモに対して欧米の報道が消極的なのは、彼らが日本の民主主義を十分に信じてはいないことのあらわれとみることもできる。