「空気人形」「花よりもなほ」

knockeye2012-10-05

 見逃していた是枝裕和作品をふたつDVDで。西川美和の「夢売るふたり」がよすぎたので、お師匠さんの映画について、「歩いても、歩いても」と「奇跡」は劇場で観たけど、ちょっとスルーしすぎているかなと思って。
 それと、先日の鋤田正義展で、「花よりもなほ」のスチールを観たということもある。写真一枚で世界観が伝わってくる説得力はやっぱりさすがだと思ったわけ。

空気人形 [DVD]

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花よりもなほ 通常版 [DVD]

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 「花よりもなほ」の方が「空気人形」よりわかりやすいかも。より正確に言えば、言語化しやすい。メッセージ性が強いともいえる。
 世代感情として、映画に限らず、メッセージ性のつよい作品は毛嫌いしてしまいがちだが、作品がメッセージを含んでいるのはむしろ当然なことだし、この映画を観ながら、‘つまり、昔のそれらしい連中が吹聴していたメッセージなるものは、いかにもメッセージらしいだけで中身なんてなかったか、あっても幼稚だったんだな’と妙な感慨がよぎった。
 伝えたいメッセージを、きちんとエンターテイメントとして成立させて提示する手腕は、たんにプロ意識というだけでなく、ものを作る前提として当然の責任という意識が、この監督にあるんだろうと感じた。
 話はそれるけれど、いまでは絶滅していると思うが、芸術家は社会的に破綻していていいんだ、なんなら、破綻していた方が‘かっこいい’みたいな意識がながらくあった。わたしの勘では、たぶん大正くらいから1970年代までではないか。作品自体の中身が貧弱なので、作家の奇行を盛らないと物語が成立しなかった。
 それは一方では、受け手側の問題でもある。受け手としての大衆は、未知の情報を正確に理解したり、意思を疎通したり、ではなく、ありきたりの物語を受け取ることを好む。それはたとえば、寅さんであったり、水戸黄門であったり、エルヴィス・プレスリーであるかもしれないし、ボブ・ディランであるかもしれない。
 観客が、無意識に、しかしかなり厚かましく求めてくる、物語の要求をどのように裏切っていくかは、娯楽芸術の作家たちが常にかかえ続ける課題かもしれない。
 有無をいわさず大衆が押しつける、そうした物語の最たるものが、「花よりもなほ」で取り上げられている忠臣蔵である。という具合に話を持っていこうかなと思ったわけ。
 しかし、忠臣蔵と呼ばれている赤穂浪士の事件は、虚構ではなく事実である。にもかかわらず、当時の大衆はそれをあっというまに物語に変質させてしまった。史実としての忠臣蔵は物語の後ろにかすんでなんだか捉えがたいものになっている。
 すこし遡ると、本能寺の変もそうかもしれない。「へうげもの」を読みつつ考え直したのは、本能寺の変という事件はたしかにへんてこ。あのとき何が起こったのかは、なんだかいまだにはぐらされているような気がする。しかし、大衆は、‘光秀の三日天下’とか、‘秀吉の大返し’、‘弔い合戦’とかのわかりやすい物語にとびついてしまった。
 ふりかえって、いまのわたしたちはその頃とはずいぶん違うか?小泉政権をめぐる熱狂と、それに続く、掌を返したようなバッシングはどうだろう。わたしには評価すべきことを評価せず、批判すべき点を取り違えているように見える。つまり「格差社会」とか、「新自由主義」とかは、忠臣蔵と同じように、わかりやすい物語にすぎないだろう。それがたぶん今は橋下徹に向かっている。
 「花よりもなほ」は、そんな日本人の物語欲の典型ともいえる忠臣蔵を、解体してかき混ぜて別のエンターテイメントに作り変えている。
 忠孝などという、あきらかに為政者に都合がいいだけの価値観を離れて、自分の足で立っている人ならば、忠臣蔵にこういう物語を見ることも出来る。
 ただ、これで大衆がもとめてくる物語に勝てるかといえば、そんなことはない。大衆の同調圧力の強さを十分に知っていればこそ、この映画の味わいが深まるというだけ。
 蛇足ながら、わたしとして面白かったのは、主演の岡田准一をはじめ、古田新太、上島竜平、千原せいじ木村祐一と出演者の多くが関西人だったこと。千原兄弟のセニョールはさすがに「おまえ江戸の生まれじゃないじゃないか」と突っ込まれていた。
 「空気人形」は「花よりもなほ」よりは言語化しにくいけれど、むしろすんなりと身に沁みた。ぐっと象徴的なつくり。
 空虚であったり、代用にすぎないという、必ずしも根拠はないけれど、一旦とらわれると逃れがたい感じが、繊細に表現されている。
 岩松了が卵かけご飯を食べるシーン、2回あるのだけれど、最初は寄っている、2回目はちょっと引いている。それだけでまったく違って見える。こういう演出、もし、日本人にしか理解できないというのがほんとならば、日本人に生まれてよかったと思う。
 主演のペ・ドゥナがとてもすてきで、それにつけても、竹島をめぐる争いに喜々としていそしんでいるのは低能だけだと願いたい。
 どうでもいいことはどうでもいいといえる政治家はいないもんだろうか。
 たとえば蠟小平は、尖閣の問題は「もっと優秀な後の世代に任せよう」といった。言い換えれば「どうでもいい」ということだった。たとえば小泉純一郎は、年金問題で追及された時、「人生いろいろ」といった。これも「どうでもいいだろっ」てことだった。そして、現にその一言で片がついた。政治家はこの程度にはスケールが大きくていいと思う。要するに粗っぽくていい。これをどうしても許せないのがまさに役人根性。その意味では、野田佳彦が‘近いうち’の解散をどこまで延ばせるかには期待している。政策には何も期待していないけれど。