はじまりは国芳

knockeye2012-11-04

 横浜美術館で開催中の「はじまりは国芳」。
 ちなみに「はじまりは国芳」は、太田記念美術館の「月岡芳年」の半券を提示すると、1200円が1000円になる。
 いまをときめく歌川国芳だが、この展覧会はサブタイトルに「江戸スピリットのゆくえ」とあるように、国芳一門が、幕末をこえて明治以降の時代をどう生き延びたかを通して、現代の日本文化に浮世絵がどのような痕跡をとどめているかを追っている。
 国芳の評価がこんなに高くなったのはじつはつい最近。ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツでの大規模な展覧会も2009年のこと。21世紀になってようやく評価され始めたが、それまではその他大勢の一人という扱いだったらしい。
 1919年に、イサム・ノグチの父、野口米次郎が『六大浮世絵師』という本を書いているが、その六人は、鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿東洲斎写楽葛飾北斎歌川広重。この六人、とくにうしろの四人は、絵に興味のない人でも名前を聞いたことくらいはあるだろう。しかし、この六人をあまたの浮世絵師のなかからあえて選びとる視点を今問い直してみると、春信は錦絵の創始者として、八頭身美人で知られる清長は‘プロポーション’という概念を浮世絵に持ち込んだ人物画家、歌麿はふたりのあとを受けて完成させた美人画家、写楽肖像画家、北斎は風俗画家、広重は風景画家、というように、そう意識していたかどうかはともかく、西洋美術の鑑賞眼に引きずられている。
 その視点は、あたかも江戸という時代が遠い古代で、まるで、遺跡から発掘された陶片に分類札をつけるような態度。それは一方では、明治の日本人がいかにはげしく江戸という時代を否定し去ったかを物語っているだろう。自分たち自身さえも含めた、東洋の否定、東洋への侮蔑の心理が、やがて近隣の中国や韓国に対する心理的な態度に反映していくように思う。そのもたらした結果については、わたしたちは今まのあたりにしている。
 そう考えると、21世紀になって、国芳が見直されている気運は、とりもなおさず、江戸と現代の連続性が見直されているといっていいだろう。
 前にも書いたけれど、歌川国芳の弟子のうち、明治の人気絵師になったのが月岡芳年(先の野口米次郎の本の目次をアマゾンで見ていたのだが、上記の六人をあげた後、最終章は‘最後の浮世絵師芳年’となっていた)。その弟子に水野年方がいて、その弟子に鏑木清方がいる。余談だけれど、このあたりの師匠から弟子への名前のつぎ方が、噺家のそれとよく似ていて面白い。笑福亭松鶴の弟子が鶴瓶、その弟子が笑瓶というように、弟子は師匠から一字もらう。そして、その弟子は、師匠が大師匠からもらった字を避けて、もう片方の字をもらう。鏑木清方の弟子が伊東深水川瀬巴水。これは‘さんずい’を引き継いでるのだろう。
 こうして国芳以来、江戸から昭和にかけての浮世絵師の系図が出来上がる。くわえて、今回の展覧会で初めて知ったのだけれど、五姓田芳柳という明治初期の洋画家も国芳の弟子だったのだそうだ。五姓田というこのめずらしい名前の画家は、横浜美術館の常設展でおなじみだったが、いままで国芳とつなげてかんがえてみたことはなかった。
 さらには、粋狂連、興笑連、などの‘連’を通じて、三遊亭円朝河竹黙阿弥仮名垣魯文、條野採菊がいる。條野採菊は連での名を山々亭有人、国芳の弟子の歌川芳幾らと東京日日新聞を創刊した。その息子、鏑木清方の回想によると、同じく條野採菊が創刊した‘やまと新聞’には、三遊亭円朝の人情噺を速記によって連載し、その挿絵を月岡芳年が描いていたそうだ。
 ちなみにこの‘連’というものについては、田中優子さんに聞いてください。なかなか面白い人間関係のありようで、サロンとでも言うのか、厳格な身分社会と思われている江戸時代だが、この‘連’というサークルのなかでは、身分の区別がなく、というより、連のなかは匿名で、身分を隠してハンドルネームみたいなものを名乗っていた。田中優子の『江戸の想像力』から例を引くと、「酒上不埒(さけのうえのふらち)」、「大屁股臭(おおへのまたくさ)」、「普栗釣方(ふぐりのつりかた)」などといった具合。そこで、武士だの、御大家だのと振り回すのがいかに無粋かわかろうというもの。日本にはもともとこうした匿名性を楽しむ風土があったとすれば、フェイスブックがなかなか受け入れられないこともわかりやすい。本名を名乗ることに価値があるか?本名で生きている現実の世界こそ‘仮の世’ではないか?そうした現実社会のしがらみを離れてこそ新しいものが生まれるのではないか?。その証しには、鈴木春信や平賀源内の手によって、錦絵が誕生した場こそ、この‘連’という揺籃だったことをあげておく。
 展覧会の話に戻ると、今回の展示で目を惹いたのは、国芳浅草寺に奉納した「一ツ家」という額絵。タテ2282×ヨコ3720mmの大画面。それだけでもめずらしいのに、当時、大評判になったこの絵を、松本喜三郎が生き人形にうつしてまた評判になると、この生き人形をまた国芳が浮世絵に描いた。この枠を超えたコラボレーションも江戸の特徴かと思う。
 月岡芳年鏑木清方を経て、伊東深水川瀬巴水の「新版画」の展示を見ると、わたしたちはここに江戸とのつながりを見ない方がむずかしい。伊東深水の筆力について、横山大観が絶賛したことは以前紹介したが、版画については川瀬巴水の存在を考えないわけにいかない。川瀬巴水は日本よりもアメリカで人気があると聞いたこともある。そのへんの事情も今回の図録に詳しいが、伊東深水川瀬巴水を「広重の技法の継承にすぎない」と評していたそうだ。
 この辺の評価はとてもむずかしい。今の私たちが見ると、川瀬巴水の描く東京の風景はとてもなつかしい。広重の浮世絵を愛好する人が川瀬巴水の描く東京を愛するのは至極当然だと思う。一方で、広重の作品さえも評価しないジェームズ・A・ミッチェナーのようなコレクターもいる。その背後には‘絵とは何か?’という問いを含んでいる。
 浮世絵師のなかで最重要なのはだれかという問いはむずかしくても、浮世絵師のなかでもっとも‘江戸っ子’なのはだれかといえば、これは歌川国芳が随一なのではないか。国芳の絵が表している江戸の人たちの暮らしや心情といったもの、それが文化にほかならないわけだが、それが、今生きている私たちの時代にどのように受け継がれ消えていったのか、思いは尽きない。
 図録の柏木智雄というひとの文章によると、鏑木清方は晩年、「会場芸術の制作から身をひいた」のだそうだ。

・・・私はただ鑑賞にのみ通ふ画境を決して望んでゐない。戦後は日展に二、三の作を示して後、大展覧会には筆を絶ち、専ら市民の風懐に遊ぶ。

 これは鏑木清方にかぎらず、すべての画家がぶち当たる壁かと思う。つまり、美術館に展示されるために絵を描いているのかということ。こうしてまた、江戸の庶民とともにあった国芳の時代へ思いが戻っていくわけ。