「その夜の侍」

その夜の侍

 横浜ブルグで「その夜の侍」。
 今年の日本映画はどうなってるんだろう?、この実り豊かさは。
 映画館で「その夜の侍」の予告編を見て、‘これはこうなってああなってこうなるんでしょ?例のパターンね’と思ったあなた(じつはわたしだけれど)、大はずれです。
 じつのところ、あの予告編だけなら観にいかなかったかも知れなかった。「のぼうの城」の山田孝之を観て、なんか勘が働いたとでもいうのか、そういうところ。予告編はちょっと煽ってる感じなのだ。
 山田孝之堺雅人だけでなく、新井浩文がすごいし、綾野剛田口トモロヲ谷村美月安藤サクラ、でんでん・・・と名前を挙げていくとキャスト全員になってしまうのだけれど、感嘆したのは、プロットのための狂言廻しみたいな、‘いねえよそんな奴’みたいな役どころがひとつもなく、‘いわねえだろそんなセリフ’みたいな言葉が全然ない。だから、誰も映画の枠の中に収まっていず、どこかはみだしている。
 現にどこかにいそうな連中が、現実に言いそうなことをいい、やりそうなことをやりながら、全体としてとてつもなくシュールなことになる。この映画は、わたしたち自身が秘めているグロテスクな物語を引きずり出している。もしかしたら、引きずり出していさえないのかもしれない。ただ、鏡に映っているだけかも。
 スタンディング・オベーションものだが、観客はそこは日本人らしく、映画が終わった一瞬後、誰も身じろぎもしないことで、最大級の賛辞を称えたと思う。ほんの一瞬だけれど、みんな席を立つのを忘れたかのようなあの感じは、ちょっと経験がなかった。
 この元ネタは、赤堀雅秋監督が主催する劇団 THE SHAMPOO HATの舞台作品だそうだが、そうと聞いてもどんな舞台なのか想像できない。
 邦画でも洋画でも、たとえば、「今度は愛妻家」、「フロスト×ニクソン」、「ダウト」などなど、舞台の映画化で記憶に残る作品も多いけれど、どこかに舞台の感じを残しているものだが、今回はそれがないことにも驚いている。
 往きの電車のなかで吉田健一の『日本に就いて』を読んでいたので、この映画を見終わった直後の感想としては、映画の日本語は、もう小説の日本語を追い越したということだった。単に、言葉の芸術という観点からだけでも、これから、小説は映画に後れをとっていくのかもしれないと思った。