『日本に就いて』

knockeye2012-11-26

 吉田健一の『日本に就いて』を読み終えた。1974年刊。

 『聊斎志異』に、文章を書いた紙を焚いて、その匂いで文章のよし悪しを判断する盲の坊主が出てくる。面白い話で、偶にそういうのがあると、文章、或は言葉というものが今日ではひどく影が薄い存在になったことに気が付く。

 言葉に対する観念があやふやになっている時、誤解を招く最も大きな原因の一つは、字引に従ってそこに出て来る項目毎に、それが言葉として独立していると考えることである。
(略)
・・・つまり、言葉を投げやりに扱う人間にとっては字引を鵜呑みにするのが重宝なので、それに従って彼等は例えば、言論の自由というのは言論の自由を意味するのだと思い、その積りでこの言葉を演説で使う。

 上は、「日本語に就いて」という章からの引用。

・・・思想とイデオロギーはどう違うか。我々はその区別も付かないところまで来ているようであるが、ここではイデオロギーを、金持が骨董を買う態度で思想を扱うこと、観念を幾つか棚や床の間に並べて置いて、それぞれが自分のものになった積りでいることだと定義して置きたい
(略)
 併しながら、左翼、右翼のことを問題にする為ではなしに、イデオロギーと、その日本文学との関係を説明して言うのであるが、イデオロギーの本尊は右翼である。これはすこし考えて見れば解ることであって、右翼の本尊は日本であるが、これは誰も見たことがない日本であり、聞く方は、今日までに右翼に散々聞かされてきたが、それで少しでもその日本の正体がはっきりした訳ではない。つまり、地理的には世界の一小区分をなし、そして又我々が生れて育った故郷でもある日本(祖国という言葉は、右翼、並に左翼のイデオローグに任せて置いた方が安全である)、凡て普遍的なものを背景にして我々の生活を軸とした現実の日本ではなくて、そういう生きたものから離れて一つの観念らしい状態を呈する、何か得体が知れないものなのである。これでは、その尺度で一つの具体的な判断が下せる場合は皆無であり、それ故に理解の範囲外に置かれた凡てのものを口実に、彼等は世を慨嘆する。
 そういうことを人間にさせるのがイデオロギーであって、イデオロギーに憑かれた一つの純粋な例を我々は日本の右翼に見ることが出来る。
(略)
 併しながら、右翼というのは一つの極端な場合であって、思想の代わりにイデオロギーで間に合せるのはもっと一般的な風習であり、それ故に文学も例外ではない。
(略)
・・・イデオロギーには右も、左も、序でに真中もあるだろうが、右だの左だのという色分けが出来る思想は、思想ではない。ましてそれは、文学の内容になるものではないにも拘わらず、それが文学の内容だというのが今日の日本文学の常識になっている。つまり、それがイデオロギーであって、一つの観念、或は一定の観念的な体系に取り憑かれていれば、或は又、そういう風に取り憑かれる頭の働き方に取り憑かれていれば、それが先にあって、文学も、生活も、どうかすると我々自身もその後に来るのだと思い込むことになるのも止むを得ない。

 これは、「二十年後の日本文学」という章からの引用。

日本に就て (ちくま学芸文庫)

日本に就て (ちくま学芸文庫)