昨日と一昨日のつづき

ヒミズ

 昨日紹介した吉田健一の『日本に就いて』は、すこしこじつけめいているかも知れないが、1974年刊だったことに符合を感じている、というのは、今、『滝山コミューン一九七四』という原武史の本を読んでいるところ。
 日米冷戦とベトナム戦争のそのころが、‘イデオロギーもたけなわ’だったと言えるのかもしれなくて、そのころ小学生だった連中が‘格差社会’とか‘新自由主義’とかを口にしていることを思えば、それらの標語は、イデオロギー教育によってすり込まれた、イデオロギー体質の、イデオロギー的な発想による、姿を変えたイデオロギーだったと、だんだん思えてきている。
 何度も書いてきたように、‘格差社会’などという言葉には何の内容もないが、問題は、内容がないことよりも、あの程度に内容のない言葉に、あれほど熱狂したかれらの態度のほうで、あれはまさにイデオロギーそのものだったと、『日本に就いて』を読んでいて思い当たった。
 それで、その世代の子供たちが、小学校でどんな教育を受けていたのかについて、原武史が実体験を踏まえてつづった『滝山コミューン一九七四』を読みつつ、驚きつつあるところ。
 一昨日の、園子温監督の「希望の国」について、おとなり日記の人の記事を読んで、なるほどと思ったのは、わたくし、このパンフレットを買わなかったので知らなかったが、その人の記事によると、あの映画のセリフの多くは、実際に東日本大震災の被災者の人たちの言葉なのだそうだ。
 「冷たい熱帯魚」のころからうすうす感じているのだけれど、それを知ってあらためて、そこが園子温の弱点なんじゃないかなと思った。
 被災者の言葉をそのまま使えば、映画が真に迫るだろうか?
 取材された被災者の立場に立って、映画の役者が、自分の言葉を台詞として言っているのを観た時、そこに自分がいると感じるか、それとも、それは確かに自分がいった言葉だが、そこに自分はいないと感じるか、どちらだろうか。
 園子温監督は、よくもわるくも古典主義的なのだろう。描こうとする対象に、じかにふれようとせず、むしろ、対象を自分のボキャブラリーにあてはめようとする。現実の事件に取材するのと、現実の事件を借用するのとはまったくちがう。愛犬家連続殺人事件をあつかうのに、犬を熱帯魚に変換してしまうことには違和感を感じる。
 犬を熱帯魚に代えても、プロットはまったく同じでありうるが、しかし、わたしはそれは違うと思う。それはディテールといえるほど些細ではないと思うが、あえてそれをディテールというなら、わたしはそのディテールにはこだわりたい。
 「ヒミズ」が成功しているのは、震災などまったく想定していない十年前の虚構に、東日本大震災というまぎれもない現実が共鳴しているからで、逆に言えば、「ヒミズ」という虚構が、十年後の東日本大震災という現実に堂々と対峙しているからだ。「ヒミズ」という虚構の刃は、現実の闇の深くにその切っ先を届かせている。
 それに比べると、「希望の国」は、虚構の力が弱いと感じた。それはやはり東日本大震災という現実が物理的に大きすぎるのかも知れない。現実を見失う大きさいうことはありうる。