「マヤ −天の心、地の心−」

マヤ − 天の心、地の心 −

 先週に引き続き、ジャック&ベティで「マヤ −天の心、地の心−」。
 ことし、2012年でマヤのひとたちが古代から引き継いでいる5012年周期の暦がひとめぐりするのだそうで、わたしたちとは違うそういう世界観をもつひとたちが、わたしたちとおなじ今という時代をどううけとめているのかという興味で観にいった。
 視点をすこしずらすだけで、世界はまったく違ったように見える。そういう経験が自分の考え方を豊かにしてくれることを、もういいおとななのだから、わたしはもちろん知っている。
 ‘自分とは違う’ひとたちのどこかに、共感できる‘自分と同じ’なにかをかならずみつけることができる。それはまた、‘自分と親しい’ひとのどこかに、‘自分と違う’なにかをみつけることができるということでもある。そういう経験をくりかえすことで、結局、ひとはひとになるのだ。
 このブログで映画や絵画の紹介を書くたびに自分の無力にうんざりするが、とにかく観てもらうしかない。
 上映後に安田美絵というひとのトークショーがあった。TPPについて(と、ここでTPPがでてくるについては、いささか唐突に思えるはずだが、この映画の内容から、さほど複雑でもない段階を踏んでここに到達する)、わたしはほとんど関心がなかったので、帰宅後、このひとのサイトを読んで勉強になった。
 はてなブックマークのコメントには、ずいぶんひどいことが書いてあるが、ああいう短いコメントは、‘きいたふうなこと’にすぎなくて、あんなものに左右されることはないと思う。安田美絵というひとのサイトがしっかりした労作であることは、400を超えるブックマーク数が示している。
 にもかかわらず、TPPそのものについては、傍系の問題という感想をぬぐえない。なぜなら、政治に、本気で自国の農業を守る気があるかどうかが問題であって、TPPだけをとりあげて是非論を戦わせても、まともな結果になるとは思えないので。つまり、TPPに参加しなければ、日本の食料自給率があがる、というのでないなら、そこにフォーカスを当てることは拙劣な戦略であり、拙劣な戦略に拘泥することは、別のイデオロギーにすぎないだろう。
 マヤの切実な問題を私たちの国に引き寄せて加熱するのは、米ソ冷戦時代にベトナムの問題で騒いだ態度に似ている。結果として、リアルなマヤの問題は置き去られることになると思う。
 しかし、それはこの問題から目を背けていいということではない。目を見開いて、鈍感にならず、憶えておくこと。そういいつつ、それができるかといわれると、たしかにそれさえむずかしい。
 少数民族や環境破壊の問題は、わたしたちの国の問題でもある。たとえば、アイヌの聖地を河川工事で沈めてしまう官僚、沖縄の慰霊碑を侮辱する右翼、出し平ダムの排砂問題、長良川河口堰、諫早湾干拓、などあげればきりがない。
 わたしは、これらの問題の元凶は、高度成長時代にできあがった既得権益の構造が、低成長時代の今も暴走を続けているからだと思っている。福島原発の問題も同根だろう。
 この日は、渋谷で従軍慰安婦についてのドキュメンタリーも上映され、「ガイサンシー(蓋山西)とその姉妹たち」というその映画の監督、班忠義と、一水会顧問、鈴木邦男が対談したそうだ。
 鈴木邦男

「観ていてつらくなるけど、これが現実ですよね。右翼は慰安婦南京大虐殺もなかったと言ってきたけど、その声が一部ではなくなり、日本全体が右傾化するようになった。それは自分に自信がないからだし、思いやりや優しさが失われてきたからだ」

また

「こういうことを言うと反日だと攻撃する人が多いが、過去の過ちを見て見ぬふりをするのは単なる排外主義。過去の過ちをしっかりと抱きしめた上で国を愛するのが本当の愛国だ」

といったそうだ。

 


 それから、横浜美術館の‘はじまりは国芳’が展示替えになったので、観にいった。水野年方の絵と、伊東深水の絵が増えていた。伊東深水のうまさはやはり群を抜いているのかも知れない。
 常設展は撮影可なのでいくつか紹介すると、小西真奈の<滝>。

奥山民枝の<山夢>。

そしてオディロン・ルドンの<二人の踊女>