「つやのよる」

つやのよる

 早起きして「つやのよる」を観てきた。‘よる’っていうのに朝九時からの上映も意表を突いてなかなかよい。
 ‘つや’は艶という女性の名前で通夜ではないけれど、タイトルから連想してしまうのは「寝ずの番」。中島らも原作、マキノ雅彦監督のあの映画も中心人物がのっけから死んでる。死と性と芸能をぐつぐつ煮込んで、わたしは好きな映画だった。
 今回の映画も、‘つや’っていうその女性が、死んではいないんだけど、死にかけている。設定は、「寝ずの番」より、ジョージ・クルーニーの「ファミリー・ツリー」。あれはちょっとどうかなと思ったけど、ただ、いまにして思えば、あの映画の舞台がハワイなのは、そういう死のとらえかたは、やっぱり西洋的ではないということなんだろうか。
 ‘つや’の顔は最後まででてこないのね(これ書いてもべつにネタバレじゃないと思うけど)。顔を出すという選択肢は、最初からなかったのかもしれない。それは、ラストシーンと整合性を保っているけれど、それでも、それが特定のだれかであっても成立したと思うけれど。
 映画としては、荻野目慶子、小泉今日子大竹しのぶ忽那汐里真木よう子風吹ジュン野波麻帆高橋ひとみ、などなど女優たちの見せ場を楽しむのがいちばん正しい見方かと。
 ダンディズムに対してレディズムという言葉があるでしょ(たぶんあるんじゃない?)。大竹しのぶの役どころには、特にそれを感じました。
 もちろん男優陣もよいのですけれど、やっぱりこういう映画では女優の引き立て役ですかね。羽場裕一の電話のシーンは秀逸。
 ところで、阿部寛なんですけど、力石徹かというくらいガリガリ。こないだ「テルマエロマエ」でぱんぱんにパンプアップしてたのに、やりますねぇ。「テルマエロマエ2」でまた戻すんでしょ。すごいね。
 早起きしたおかげで、映画を見終わってもまだ昼前だし、この日は思うところあって、相模原のクシタニを訪ねました。以前、エクスプローラーを買った時に、店の人がわたしのブーツを見て、他社品でもソールの張り替えを「いたしますので」と言ってくれたのを、いまさらにたよりにして。
 わたしのブーツは、履き古したゴローなので、ゴローに持っていけばよさそうなものなのだけれど、まだここまでひどくなかった時、そのときは富山に住んでたころ、ゴローに電話したら、なんかすごいイヤな対応をされたので、そのままはきつぶすみたいなかたちになってしまってたわけ。
 まあ、最近はバイクにも乗らなくなったので、いいかなと思ってたんだけど、おっさんになったということもあり、服の好みも変わったということもあり、エドウィンのワイド系、あるいは、ロークロッチ系のデニムをはいたりするこのごろなので、レッドウイングのブーツでも買おうか知らんとあれこれ物色するうちに、気が付いてみると、このゴローのブーツは、さすがに長年履いてきただけに、味わいがハンパじゃない。ホンモノだから。見ているうちにバイクに乗りたくなる。
 それで、クシタニに、ソールの張り替えなんてどこでもやってくれるんだろうけど、やっぱりバイクブーツに精通した店の方がよろしかろうと思って持っていったんだけど、前と違って、「イヤ、他社品は無理だと思いますよ」なぜなら木型が合わないから、ということ。ビブラムソールなんて全部一緒かと思ってたらちがうんだね。でも、そのまますごすご持って帰っても、ガキの使いやあらへんねから、つうわけで、一応工場に問い合わせてもらうことにしました。
 それで、可笑しかったのは、今月号のBE−PALを買って帰ったわけ。巻頭特集にゴローが紹介されてて、よい靴は直して長く履きましょうみたいな感じなわけよ。そうやって売っといて、富山から電話したらけんもほろろってんだからひどい商売じゃない。メディアに見せる顔と、実際に客に見せる顔が違うっていうのは、それはまあ世の常ってもんですよ。