時間が空いたので「レッド・ライト」。
ロバート・デニーロの演じる超能力者がかっこいいけれど、この脚本のミスは、シガニー・ウィーバーの演じる科学者が途中で降りちゃうこと。ロバート・デニーロ×シガニー・ウィーバーの対立軸の緊張感が最後まで持続できたら、あの謎解きでもっと驚けたはずだと思うけど、すでに観た人はどう思いますかね。
謎解きはばらさないけれど、それが弱いと感じた人がいたら、もし、ロバート・デニーロ×シガニー・ウィーバーの対決が最高潮に達した段階で、あの謎解きだったらと想像してみてほしい。それなら意外にいけたのに、惜しいと思うんだけど、どうでしょう。
すべてが可能であるという意味で、‘映画は自由に呪われている’わけで、奇術や超能力をテーマにするとそこが弱点になる。
ヒュー・ジャックマンの「プレスティージ」を思い出してみてもよい。原作の「奇術師」を読んでいたので、映画は観なかった。あのオチは読者に対してフェアじゃないと思った。奇術師のバトルと読んでいたのに、それは‘奇術じゃないじゃん’ってなったときに、やっぱり緊張の糸が切れた。
そういう意味でうまいなと思うのは、中島らもの『ガダラの豚』。あれは、アフリカや日本の呪術を、そうはいっても文化として存在しているんだから、‘絶対ノーと否定できるか’というあたりまで掘り下げて、読者を揺すぶる迫力がある。
「レッド・ライト」の話にもどると、実験のトリックを破るくだりはスリリングだった。それだけに、デニーロ×ウィーバーの対決が途中で腰砕けになったのが惜しい。
でも、これは外野がいうほど簡単な作業ではないだろう。もともと乗り気でないシガニー・ウィーバーを対決にひきずりこむ動機付けを創らなければならないし、最後の謎解きにむけて緊張感をもりあげるためには、何度かどんでん返しが必要だろうし、キリアン・マーフィ演じる助手とシガニー・ウィーバーとのすれ違いとミスリードをうまく絡めなければならない。内田けんじ監督ならなんとかしたかも。
キリアン・マーフィがなぜかやたら熱くなるのも、本来あるべき対立軸が途中で消えちゃうからだと思う。