遅ればせながら、クリスティーナ・アギレラとシェールの「バーレスク」でのパフォーマンスを観た。
レンタルだったので、パフォーマンスのフルヴァージョンが観られなくて残念。‘バーレスクもの’としては、「さすらいの女神たち」、「クレイジーホース・パリ」に続いて三作目だけれど、歌と踊りの完成度はこれがいちばん高い。前の2作は、歌と踊りに主眼はないからあたりまえか。
で、こんな風にショーアップされたバーレスクラウンジがほんとにあったら、そりゃすごいよなと思い、どういう思考経路をたどってか、昨年末の紅白歌合戦で話題になった、美輪明宏ではなく、ももいろクローバーZのパフォーマンスをYouTubeで観てみた、瞬間、‘あ、そういうことじゃないのね’ということで、この国のアイドル業界を支える、需給バランスのありように納得した。
くらべる基準がまちがってるんだろう。でも、安室奈美恵ではバーレスクという感じではなくなるし。もし日本でこの「バーレスク」をリメイクするとしたら、松浦亜弥とかかなぁ。
ももいろクローバーZを検索してみたのは、いま、本朝の芸能界を席巻しているAKB48にしても、その前のモーニング娘。にしても、本朝アイドルの演出の常道は、あえて高いパフォーマンスを要求しようとしない戦略を、秋元康は特に意識的に、とっているように見えるけど、ももいろクローバーZは、そのカウンターなのかなと思って。
秋元康は、おにゃんこの時からたぶんそうなわけで、10代の女のこのへたくそな歌への偏愛は、秋元康の個性によるものなのか、あるいは、これがいちばん気にかかっていることだが、あの‘格差社会’とかいう空疎な標語に群がる精神風土で、アイドルが育まれる条件として、‘かっこよくては嫌われる’という可能性があるとしたら、なんだかみすぼらしい。
沖縄アクターズスクールのマキノ正幸が、秋元康と決別して、安室奈美恵やMAXの成功を導き出したことを思い出してもよい。安室奈美恵はもしかしたら世界で通用するかも知れない。しかし、AKB48はどうか?。ただし、これは反疑問ではなく、ホントに疑問文として書いている。ただ、私としては、オタクの群れに混じってAKB48を応援する気にはなれない。
AKB48のコンテキストが、はっきりとした違和感として浮かび上がった事件が、峰岸みなみが丸坊主になった事件だろう。
わたくしごとをいえば、このブログに、ロバート・キャパとゲルダ・タローの記事を書いたと、ほぼ同時にあのさわぎだったらしく、そうでもなければたぶん気が付きもしなかったと思う。ちなみに、そのとき話題に上ったキャパの写真は、今月の文藝春秋、沢木耕太郎の連載、「キャパの世界、世界のキャパ」に掲載されている。
あの峰岸みなみの事件が、秋元康の演出であろうと思うのは、上に書いてきたようなこと、つまり、パフォーマンスの質ではなく、総選挙とかセンターとかのサイドストーリーで演出するやり方と同質だと思うからだが、演出であったにせよ、なかったにせよ、AKB48のエンターテインメントの本質が、パフォーマンスにはなく、ムラ社会の連帯意識に訴えかけるものにすぎないということを、よく示していると思う。ムラ祭りの盆踊り。
高さを目指さないこと、上を望まないこと、ガチで闘わないこと、そして、それを、ベタな演出で彩ること。それこそが芸能の本質ではないか、という意見もあるだろう。ただ、私はそうは思わない。