一時期、タンブラーに手を伸ばしてみたものの、結局はてなに落ち着いている大きな理由は、自動リンク。自分が書いた記事のことばが、勝手に飛んでいってどこかにつながる。かまえてつながりを探すつもりはさらさらないので、そういう偶然性がたのしい。
日曜日、「クラウド アトラス」について書いた記事で、手塚治虫の『火の鳥』に似てると書いたら、火の鳥が自動リンクして、「クラウド アトラス」について書いている人の記事に辿りついた。原作者のデイヴィッド・ミッチェルは日本に滞在していたこともあり、この作品は、三島由紀夫の『豊饒の海』に影響を受けたそう。
それがほんとなら、「『豊饒の海』を思わせる」どころか、そのままだわ。石立鉄男の言葉を借りれば「なんだよ?おい!」だわ。
『豊饒の海』は三島由紀夫の絶筆だし、『火の鳥』は手塚治虫のライフワークだし、日本人としてはすこし複雑な気分になるが、前にも書いたとおり、本邦では『豊饒の海』そのものの映画化がもののみごに大ゴケしているわけだから、うまく脚色してくれてありがとうというべきなのかもしれない。
映画版「クラウド アトラス」は、けちょんけちょんにけなしているニューズウィークの映画評も、原作は絶賛している。ラナ・ウォシャウスキーが言っているように、芸術世界のリインカーネーションと思えばいいのかな。
それはさておき、いま、この記事を書くために、「クラウド アトラス」の評が出ていたニューズウィークをめくっていたら、となりのページが「シュガー・ラッシュ」リッチ・ムーア監督のインタビュー。
「シュガー・ラッシュ」が新しいのは、ゲームを原作としているのではなく、ゲームの世界そのものを描いている点だといい、日本のポップカルチャーがちりばめられているについては、監督自身が10代のころ遊んだアーケードゲームは日本製で、彼にとって‘「ゲーム」と「日本」は同義語’なのだそうだ。
実は昨日、秋葉原に行った。アメリカではサブカルチャーとされるものが、日本では主流のカルチャーだと知って驚いた。アニメや小さなおもちゃといった趣味の世界にみんなが情熱と時間と労力を注ぎ込み、いろろいろな商売が生まれて、ひとつの街が成立しているなんてすごい!アメリカでは考えられない。
挿入歌にAKB48を使っているけど、ああいうポップグループもアメリカではありえないか?
という質問に
あり得ないね。アメリカ人は合理的というか現実的というか、「個人の自由を尊重する」と言いながら、主流なものしか受け入れないところが意外とある。
秋葉原では、何を好きであろうと、とことん極めればいいと誰もが考えている。アメリカだったら「いいかげんにしろ」ってあきれられそうなことも、文句を言われない。すごく新鮮だったし、素晴らしい自由だ。
この誤解をどうやって解けばいいのか途方に暮れるが、案外、正解なのかもな。
こないだ「バーレスク」について書いたときに、AKB48は世界で受けるのかということについて、自分の心の中でサスペンドにしておいた。考えていたのは、世界標準という意味ではどうしようもないのはいうまでもないけど、その標準自体を破壊するインパクトを持ちうるのかどうかについて、ちょっと疑問のまま持ち越しにしておいたのだった。わたしとしては、まだネガティブよりなんだけどね。わからない。
三島由紀夫の『豊饒の海』にふれたついでに、あの有名なラストシーンについて、ひさしぶりに思いを巡らしてみた。
全四巻の長大な物語を最後に無に帰するあのラストのインパクトが、あの小説を名作にしているとわたしは思っているけれど、わかいころはたしかに「この女ウソついてんじゃねぇの?」と思っていた。しかし、さすがにある程度の齢を重ねたせいで、今はあの意味が分かる気がする。結局、意を決して、ある行為へ、一歩を踏み出した人は、世界を変えていく。それに対して、一歩退いて、世界を認識する生き方を選んだ人は、変わっていく世界を後付けしていくしかない、ということかなと今は思う。
ドナルド・キーンがどこかに書いていたが、「『豊饒の海』というタイトルはどういう意味ですか?」と三島由紀夫に尋ねると「月面最大のクレーターの名前です」という答えだったそうだ。
日曜日は、DMMの配信で「ドライブ」も観た。
小林信彦が品田雄吉に「観た方がいい」と勧められたとか。「クラウド アトラス」と「ドライヴ」どちらが好きかといわれれば「ドライブ」かもな。