「舟を編む」

knockeye2013-04-20

 「ザ・マスター」がよかったのと、「リンカーン」を観にいく予習として、ポール・トーマス・アンダーソン監督、ダニエル・デイ=ルイス主演の「ゼア・ウイル・ビー・ブラッド」をDVDで観た。
 いっしょに借りた「おとなのけんか」(「ジャンゴ」のクリストフ・ヴァルツが出ていると気が付いたので)は何回観ても途中で気が散っちゃうんだけれど、「ゼア・ウイル・ビー・ブラッド」はぐいぐい引きこまれた。これは、まだ開発が始められたばかりのアメリカの油田に携わっていた、トレジャー・ハンターのような石油屋たちが魅力的に描かれているためだろう。
 おもしろいことに、この映画にも「ザ・マスター」とおなじく、実在の宗教家をモデルにした‘ニセ預言者’が登場する。
 どうしてこの人物が、主人公に対立する価値観として存在しなければならないのかは、「ザ・マスター」で、ポール・トーマス・アンダーソン監督のテーマに一度さらされたせいか、よく分かる気がした。
 主人公ダニエル・プレインビューは、自分が、文字通り、命と引き換えに手にしている生の実感を、裏付けのない薄っぺらな言葉にやすやすと変換する若者が許せない。しかし、それは一方で、この主人公が、過激な理想主義者で、ニセ預言者連中が吹聴するよりも、さらに完璧な世界を意識の下で信じたがっているということでもある。
 その意味で、事故で聴力を失った彼の息子、H.W.が、ダニエルを中心とするもう片方の対立項だ。ダニエルは、H.W.のように、世界を善きものとして受け入れることができない。自身でも言っているように、世界の邪悪な面を見てそれと戦ってきた自負があるから。
 ここにこの人の性格悲劇が存在する。骨太なドラマ。ダニエル・デイ=ルイスのアカデミー主演男優賞もむべなるかな。
 そうした予習をひとまず置いといて、この日は石井裕也監督の「舟を編む」を観にいった。
 石井裕也監督の映画は、商業映画のデビュー作にしてはやくも評価を確立した「川の底からこんにちは」は観ていないのだけれど、それにつづく「あぜ道のダンディ」は観た。で、なるほどなと思ったのは、スタイルのゆるぎなさ。イメージに妥協がない。
 今度の「舟を編む」は、三浦しおんの本屋大賞を受賞した小説が原作としてあるわけだけれど、データとして入力した原作をイメージとして出力する能力がとんでもない。たとえば、玄武書房のビルだったり、早雲荘という下宿だったり。あの早雲荘がこの映画の重要なパートを奏でていることは誰も否定しないだろう。それと、主人公たちが飲み会をひらく居酒屋のさりげない凝り方は「あぜ道のダンディ」を観ていなければ見逃したかもしれない。
 おもいっきり書き言葉の松田龍平と、おもいっきり話し言葉オダギリジョーの、随所にちりばめられた対照の妙には、加藤剛伊佐山ひろ子との軽妙なやりとりをまじえて、この映画がじつは「相棒」とか「太陽に吠えろ」とかの刑事ドラマの面白さも併せ持っていると気づかされる。
 「ゼア・ウイル・ビー・ブラッド」も名作だけれど、歩調の確かさ、違う価値観をイメージとして出力する演出の骨太な感じが、案外、石井裕也監督は、ポール・トーマス・アンダーソン監督に似ているのかもしれない。
 それはまあどうでもいいけど、松田龍平が、手紙を読んで、たたんで、また封筒にしまうとか、オダギリジョーが、携帯で話しながら辞書編集部に入ってくるとか、あのあたりは演技としても演出としても見応えじゅうぶん。
 辞書づくりなんていう地味なテーマの小説がベストセラーになり、それがこんなにいい映画になるというような、いまの日本の状況は、はっきりいって悪くないんじゃない?。そうでしょ?。もし、日本文化という言葉を使いたいなら(別に使わなくていいと思うけど)、こういうことをささなければならない。だけど、文化の中心にいる人たちは「文化」なんて言葉は口に出さない。そのあたりが、生きている言葉をつかまえて辞書に採録することの面白さだと思う。
 世の中に恋愛映画はかずあれど、「恋とは何か」という問いに対して、辞書の項目でこたえる映画はそうとうユニーク。