当然のこと

knockeye2013-04-25

 前にも紹介したが、坪内祐三の『靖国』はよい本なのでオススメしたい。
 安倍内閣の閣僚が靖国に参拝したという記事が新聞に載っていた。
 安倍首相の言い分は
「国のために尊い命を落とした英霊に尊崇の念を表するのは当たり前だ。わが閣僚はどんな脅かしにも屈しない。その自由は確保している。当然だろう」。
 靖国神社というのは、もともと招魂社という小さな社で、明治と年号が改まって、なんとなく世情も落ち着いてきたなというころに、薩長のひとたちが、明治維新の戦乱で亡くなった同志を顕彰するために建てた。何せ、当時はまだ新幹線も鹿児島までは開業していないし、ライト兄弟もまだ子供だった。墓参りに山口や鹿児島に帰るのにも一苦労なのだし・・・という程度のことだったろうと思う。
 それ以降の変遷は、日本の近代史と歩調を合わせて、面白いことになるのだけれど、ただ、もとはといえばそういうことにすぎない。だから、安倍首相のいうように「国のために命を落としたひとに尊崇の念を表する」のは、別にそりゃかまわないでしょうということ。安倍さんは長州の人なので、そういう言い方に無理がない。実感として「何が悪いの?」というところにウソはないと思う。
 だが、問題は、「尊い」というところと「英霊」というところで、「英霊」とは、つまり、戦死者の神格化であり、誰であれ死者を神格化するとき、神格化された者ではなく、神格化するものが権威を手にする。そして、その権威は「尊い命」を裏付けにしているために、強大な同調圧力を持つ。「尊い命」という言葉の裏には「人の死に‘尊い死に方’と‘尊くない死に方’がある」という価値観を暗に示している。「戦死者が尊い」という価値観を認めるならば、「戦争で死にたくない」と思っているわたしのような人間はあきらかに「尊くない」。で、その価値観(つまり宗教)を国が公式な価値観として認めるなら、国は国民に戦争を強要することも認めることになる。
 これは、「風が吹けば桶屋が儲かる」といった、詭弁ではなく、ホンの一昔、前世紀にこの国で起こった事実なのだ。
 信教の自由があるので、安倍さんであれ、誰であれ、靖国神社に参ろうが、オウム真理教に入信しようが、それはわたしの知ったことではない。中国も韓国も批判するのはおかしい。当然のことだ。しかし、当然なのは信教の自由であって、「尊い英霊に敬礼すること」ではない。それはわたしはしない。人の死は家族や友人の手で悼むべきであって、その場に他人が踏み込むべきではない。だからわたしは、見ず知らずの英霊さんに尊崇の念は表しない。その自由は確保している。当然のことだろう。