「グランドマスター」

knockeye2013-06-08

 「グランドマスター」は、息を呑むほど美しい。映画館を出てひと息ついた後、まず浮かんだ思いは、「美しい中国が帰ってきたのではないか」という、予感とも期待ともいえない淡い幸福感だった。
 わたしたち日本人にとっての中国とは何だったか?。ネトウヨとか、明治以降の国家主義者たちに尋ねれば、ただちに聞くに堪えない罵詈雑言が帰ってくるだろう。しかし、浄土真宗門徒であるわたしにとって中国は、法然上人を導いた善導大師の国であり、もともと‘グランドマスター’の国だったのだ。
 いま、公式サイトで予告編を見てみると、まるでハリウッドの西部劇のような編集になっている。本編でも、オープニングとエンディングはそんな感じ。これは商業的な配慮でもあり、カンフー映画というジャンルに向けての礼儀でもあるのだろう。
 だが、その化粧箱を開けたとたんに鼻をうつこの映画の香気に、時を忘れない人はいないだろう。
 特に美しいのは、ワン・チンシアン演じる老師、宮宝森と、トニー・レオンの葉問が、継承をかけて闘うシーン。宮宝森は‘思想’で闘おうと言い、彼が手に提げた餅を「割ってみよ」というのだ。
 このシーンを頂点として、その前にある、伎楼の手練れたちとの軽い手合わせ、後にあるチャン・ツィイーの宮若梅との闘いまでの流れは、完璧というしかない。
 ‘思想’という言葉が、身体性を失っていないことに感動する。そして、それを映像で表現したウォン・カーウァイのすごさ、それは、東洋の伝統に根ざしたすごさなのだが、単に根ざしたというだけでなく、それをはっきりと意識的に描いていることがすごいのだ。 
 あの‘餅’のシーンを西洋人が理解できるかどうか興味深い。おそらく理解できると思うのは、ウォン・カーウァイの演出力にたいする信頼なのだが、すくなくとも、わたしたち日本人にとっては、あれはもはや、遺伝子レベルにすり込まれたといっていい伝統の根っこにあるものだろう。
 日中抗争の時代で、画面に日本兵が出てくるといらいらする。まったく、あの時代の日本人は、西洋の戯画というしかなく、そのわたしたちの悲惨が、こうしたテーマの映画では、とても醜く映るのは仕方ないことだと思う。
 芥川龍之介の「歯車」に「邯鄲の歩み」の故事が出てくるけれど、あのころの日本人を思うと、まったくあの寿陵余子のように、東洋の歩き方を忘れ、西洋の歩き方もわからず、のたうちまわっていたのである。
 なんといっても、当時は世界全体を西洋が支配する勢いだったのであり、事実上独立を保っていた東洋といっては、ほとんど日本のみだったことを思えば、わたしたちが近代化のためにはらった重すぎる犠牲にも、意味があったとわたしは思っている。だからこそ、いまだに靖国の意味を理解できない政治家にはうんざりするし、一方で、いかにも人権意識が高いふりをしながら、その実、西洋に阿っているだけのジャーナリズムにも吐き気がする。
 この映画は、日本についてはほとんどふれない描き方をしている。抗日とか反日はもはやテーマではないという意識も、ウォン・カーウァイの目の高さを示しているだろう。
 全編を貫いているのは、トニー・レオンチャン・ツィイーの恋愛である。しかし、このふたりは指一本ふれはしない(格闘を除いては)。それも美しいと思った。
 わたしたちの文化の源流は、なんといっても中国にある。ここに書いているこの文字にしたところが、中国人のものなのである。その一方で、わたしたちは、最初に近代化した東洋の国として、西洋と東洋の文化の違いを超えて、生きていける道を探してきた。わたしたちの苦難の上に、今の東アジアの国々が立っているという自負は、わたしたちはひそかに抱いていいものだろう。
 以前にも書いたけれど、象徴天皇制は、そういった意味で、すぐれた発明だといえる。国家元首などという意味の分からないものに回帰しようとしている人たちは、まだ寿陵余子のように腹で這いたいのだ。
 映画はもちろん西洋の文物だ。西洋の容れ物に、わたしたちはようやく東洋の中身を入れられるようになった。そのことが感動的なのだ、‘東洋が西洋に優っている’とかではない。それはたとえば、近年の日本映画ブームや、アニメ人気などにも反映しているだろう。
 そしてこの映画は、中国も、それができるようになった、しかも、名作といえるレベルでそれが出来るようになったということを示している。
 日本、中国、韓国、或いはその他のどんな国の誰でも、いまだに腹で這いずり回っている国家主義者に、この流れを逆行させてはならないと思う。