古賀茂明と慰安婦問題

knockeye2013-06-16

 古賀茂明が、今回の橋下徹の発言を、その原発に対する態度と照らして、実利と倫理が対立するとき実利を採る、倫理性のなさだと指摘している。
 しかし、そういってしまうと事実にそぐわなくなると思えるのは、今回のことはむしろ‘国家’というイデオロギーにこだわって実利を損ねたと見える点だ。また、原発のことでいえば、脱原発は倫理の問題ではないはずだし、原発は実利の面でももはや時代遅れであると思っている。
 話が脇道にそれるが、この一連の騒ぎのあいだ、ひとことふれておこうと思いつつ書きそびれたことがあるので、ここで書いておきたい。それは、そもそもレイプは性欲の問題ではないということ。レイプはセックスですらない。これは河野貴代美が『性幻想』という著書のなかでふれている。興味のある方は読んでみられたらよい。
 レイプを性欲の処理だとする見解がすでに誤謬なので、したがって、今回の橋下徹の発言は提言といえるレベルではなく、‘あてこすり’にしかならない。どんな‘あてこすり’かといえば、沖縄米兵のレイプ事件も慰安婦問題と同じでしょ、という‘あてこすり’で、これは「いまさら70年前の性犯罪にごたごた文句言うなら、今すぐ沖縄から出て行きやがれ」と喧嘩を売っているわけだから、アメリカはそりゃ怒る。そもそも、日米安保がよって立っている憲法を‘日本を孤立と軽蔑の対象に貶めた元凶’といっているわけだから、米軍に対するこの態度は、つじつまが合っている。
 つじつまが合っていることを言ってるんだから、記者会見でもそのまま突っ走ればよかったと、先日は言ったまでのこと。そこでしっぽを巻くならはじめからおとなしくしてろってこと。
 うっかり‘ついで’が長くなってしまった。古賀茂明の記事に戻ると、理想と現実のはざまで、最善の選択を選ぼうとするのは政治家に限らないし、理想と現実の対立を、どれくらい高い位相で止揚したかが、その人の品位というものだ。
 したがって、橋下徹の誤謬は、倫理と実利の対立という、普遍的なテーマであるより、もっと致命的なことだと思う。
 それは、これはもうずっと言っていることだが、行政をサービス業ととらえ、地方分権を目指していた、住民主体の姿勢から、‘国家元首’とか、‘国歌斉唱’とか、国家主体の姿勢へと変節した時点で、橋下徹も維新の会も、政治家として終わっていたと思う。
 橋下徹石原慎太郎が口にする‘国家’の概念は、たかだかこの100年かせいぜい200年くらいの流行にすぎない。イギリスもドイツもイタリアも、もちろん日本もそれ以前には、そんなイデオロギッシュな国家観に縛られてはいなかったように見える。
 社会構造が変われば、人々にとっての国家の比重も変わる。個人と社会にとって重要なのは、国家ではなく公共であり、行政機関として、国家より地方自治を重んずるほうが公共のためによりよいと、住民が判断すればそうすればよいのだし、とくに19世紀から20世紀が中央集権的な国家主義の時代であったために、その修正という意味でも、地方自治の持つ意味が重くなるのは自然のなりゆきに思える。
 橋下徹は、そうした21世紀のさきがけとして登場しながら、19世紀の亡霊となることを選んだ。ずっと前にも書いたが、中央集権的でありながら地方分権的であることはできない。それは悪い冗談でしかない。
 原発は規模の大きさ、制御の難しさから、供給側(原子力ムラ)が主役の、中央集権的なエネルギーだった。これに対して再生可能エネルギーは、使用者が主役の分散型エネルギーである。もし橋下徹地方分権の側に立っていたなら、原発容認の発想は生まれるはずがなかった。猪瀬直樹は震災後いちはやくガス発電プロジェクトを立ち上げている。そういう道もあったはずだった。
 今回の橋下発言の第一報を聞いた後、村上春樹の「壁と卵」のたとえを引いて、橋下徹が壁なのか、マスコミが壁なのか分からないと書いた。
 しかし、橋下徹自身はどちら側に立つのか。わたしたちは、卵側につく政治家を求め続けて、裏切られ続けている。