村上隆と冷泉彰彦の「風立ちぬ」評

knockeye2013-07-25

 ニューズウィークの巻末コラムが泣かせたので、アップされてたらリンクを貼ろうと訪ねてみたけど、もちろんまだだった。来週おぼえていたらブックマークしよう。
 その代わり、冷泉彰彦が、「風立ちぬ」について書いているコラムを見つけた。

 ブックマークコメントを見たら、‘こんなことだれも教えてくれない’ていうのが人気なんだけど、それはあなた自分で読みなさいよ、短かい小説なんだからさ。
 はてなブックマークを見てたら、村上隆が、「風立ちぬ」について書いているのを見つけた。

 偶然、この人の本を読んだばかり。その中で、ガンダム富野由悠季との対談に触れた章(96ページなんで立ち読みなとしてもらいたい)で、富野由悠季が「自分たちのやっていることの方が芸術性が高い」と主張したのに対して、それは自明な事だが、現代芸術は「特殊職業」のようなもので、「クローズドサーキットの中で生まれ育っていくメディア」だとした上で、
「大衆芸術の作家の中には、現代芸術の作品のほうが、国境や時代を超えていくうえでは強力であることを認めたがらない人もいますが、それは少々、傲慢なのではないかとも思います。」
 実は、「風立ちぬ」を観たあと、この一節が頭に浮かんだのだ。宮崎駿は、大衆芸術でありながら時代を超えたのではないかと。
 なので、村上隆がこうツイートしているのを読んで我が意を得た。

#風立ちぬ この連ツイのはじめに<日本の戦後芸術の在り方に、なにからなにまで、きっちり落とし前をつけて>と語ったその意味は、大衆芸術の分野で、ここまでヌケヌケと大芸術の表現が製造構成可能である、と謳い上げられたのだから、僕のような西欧の着床地で仮暮らしをしている芸術家は

#風立ちぬ その存在そのものが型なしになってしまった。それはさておき、その意味で『風立ちぬ』は日本人が待ちに待っていた戦後の純正な大芸術作品ではある。手紙にこだわり、効果音も人間の声が変形され、まさに人間万歳人間賛歌を2時間体験できるのである。