恨と愛国

knockeye2013-07-26

 Twitterで想田和弘をフォローしているのだが、山本太郎中核派云々の火元は池田信夫だそうだ。池田信夫は、昨日紹介した冷泉彰彦と同じく、ニューズウィークにコラムを書いている。
 品位っていうもの、それがどれほどのものかは知らないけれど、その差があらわになる、こういう瞬間に立ち会うと、さすがに鼻白む。
 冷泉彰彦池田信夫が「慰安婦問題」について書いている記事を読み比べて、論理以前の問題として、目の高さのちがいを感じる。
 それで思い出した。橋下徹慰安婦発言について、池上彰週刊文春に書いていた記事をちょっと紹介したが、異例なことに、その何週間か後に、改めて、慰安婦問題についての記事を寄稿していた。前は、橋下発言に対する批判が主な内容だったが、今回は、ちょっとニュアンスが違う。
 要約すれば、慰安婦問題が表面化したのは、日韓の国家間で、戦後補償の問題についてはすでにけりをつけた後なので、国家としては補償できないけれども、民間で基金を作ってそこから補償しましょう、そして、総理大臣の謝罪の手紙もつけましょう、という謝罪のしかたをしたわけで、実際、韓国以外の地域の元慰安婦の方たちはそれを受け入れてくれたのだけれど、韓国の元慰安婦の方たちだけは、どうしても国家補償でないと受け入れられないとして、これを拒否した、つまり、謝罪したんだけれど、それを拒否したということを書いている。
 橋下発言のときは、スピード違反を例にあげて‘日本だけがどうして?’は通らないと書いていたが、今回は、‘韓国だけがどうして?’と言っているように聞こえる。論理的に不整合とは思わないが、今回の記事を、橋下発言が喧伝されていたころに書いていれば、橋下徹はありがたかったはずだ。
 慰安婦の話はひどい話だけれど、だからといって、それが国家補償の対象なのかどうかは、わたしとしてはまだ疑問に思えないではない。
 わたしがこれについて考えるとき引っかかってくるのは、韓国の元慰安婦の方たちが取っている態度は、民族差別に対して民族差別をもってしているだけではないかという疑問なのだ。
 上記のようにテクニカルな問題で、国家補償という形がとれなかったとしても、民間基金という形で、多くの日本人(慰安婦に何のかかわりもない人のほうが多かったのではないか)が、謝罪の気持ちを表したにもかかわらず、国家補償でなければ受け取れないという態度は、偏狭であるよりはむしろ、求めているものが謝罪ではなく復讐であることを示していないだろうか。だとすれば、それに応ずることは正義の実現にはならないとわたしは思う。
 いずれにせよ、悲惨な話にちがいない。そういえば、こないだ来日していた元慰安婦の方が亡くなったそうだ。何の希望もない、恨みだけがある、そういう生き方。冥福を祈るなんておざなりなことはとても言えない。
 今日の神奈川新聞にこういう記事が載っていた。わたしが思うのは、そもそも、国を愛したり、誇りに思ったりする‘必要’があるのかということ。愛せるものを愛し、誇れるものを誇ればいいのではないか。それに、それは本来ひそやかであるべきではないか。