「選挙」「選挙2」

knockeye2013-07-28

 マーティン・スコセッシ監督が、ローリング・ストーンズのコンサートを撮った「シャイン・ア・ライト」をまたDVDで観た。
 封切りのときは気にも留めなかったが、このコンサートは、ビル・クリントン元大統領主催のチャリティーコンサートで、冒頭のところにクリントン夫妻とそのお母さんがちょっと出てくる。ヒラリー・クリントン
「お母さん、ローリング・ストーンズを待たせてるわよ!」
と言っておどけてたりする。
 それで、わたくし、ちょっと気が付いて調べてみたけど、ミック・ジャガービル・クリントン安倍晋三を年齢順に並べてみよ。
 答え、ミック・ジャガー70歳、ビル・クリントン66歳、安倍晋三58歳。
 安倍首相が、「侵略の定義云々」とか、「河野談話を引き継がない」とかの発言をくりかえしたときに、アメリカの誰だったか忘れたけれど識者のひとりが、「失望した」とインタビューに応えていたのをみたときは、それがピンとこなかったけれど、ローリング・ストーンズのコンサートで前説をやってるクリントンを見て、その感覚が分かった。確かに、安倍晋三にはがっかりだわ。現に、あの発言から株価も下がり始めた。
 わたしたち一般の日本人は、ビートルズローリング・ストーンズボブ・ディランも、世代的体験として共有している。そういう世代の政治家が必要とされているのに、安倍晋三にしても、それより若い世代のだれかにしても、靖国神社に参拝して喜々としているのは、ちょっとホントどうかと思う(田中康夫でさえ、「事務所から千鳥ヶ淵に向かって敬礼する」みたいなことを、はずかしげもなくコラムに書いていたし、そのまんま東も宮崎県知事を辞めるやいなや、靖国参りだし)。
 靖国神社世界宗教たりえるか?。どころか、そもそもほんとに日本文化かどうかさえあやしい。
 これは、日本という国では、政治家という職業が、いかに特殊な職業か、ふつうの人にはなれない特殊な身分かを、よく示している。靖国神社参拝は、そう意識しているとまで言わないが、いわば、フリーメイソン入会の儀式という感覚なのだろう。
 小泉純一郎がブッシュJr.のところで、エルビス・プレスリーの歌に併せて踊って、ブッシュが‘おいおい’という顔をしていたことがあった。考えてみれば、小泉純一郎は、その意味ではふつうの人だったし、ふつうの人が政治家にならなければいけないとつくづく思う。
 渋谷のイメージフォーラムで、想田和弘監督の「選挙」「選挙2」を続けて観た。合間に5分の休憩しかなかった。朝飯抜きで出たので午後4時まで飲まず食わず、しかも出さず。
 じつは、「選挙2」のほうは、何週間か前に観にいこうとしたの、たまたま上映時間の巡り合わせがよかったときがあって。でも、映画館を間違えてそのときは観られなかったが、おかげで「選挙」も観られたのは、「禍福はあざなえる縄のごとし」と言うべきか、言い過ぎか。渋谷は映画館が多い。よく考えたら「Peace」を観たのもイメージフォーラムだったから、気が付けばよかったのだけれど、「Peace」が好きです、わたしは。
 映画が終わって外に出たら、主人公‘山さん’こと山内和彦さんが立っていた。それが‘こんなとこで何してんの?’という感じの立ち方で、それが人となりを伝えていておかしい。ふつうの人で、ふつうの人がふつうの言葉で政治を語れるようにならなければおかしいと思わせてくれる。すくなくとも、「選挙」のときは、こういうふつうの人が政治家になれるチャンスがあった。
 「選挙」「選挙2」を続けて観てよかったのは、この間の自民党政治家の変貌ぶりが見られたこと。「選挙」にも出ていた同じ政治家が、「選挙2」では、あからさまな撮影拒否をする。映画「選挙」が彼らに不利に働いたとは特に思わないのだけれど、まるで空気の成分が変わったかのような、これといった理由の見えないその変貌ぶりに、彼らの本質が見えた。
 「選挙2」は、山さんがろくに選挙活動をしないせいで、カメラは他の候補を追う比率が多くなるが、たとえば、みんなの党の若い候補なんか、想田監督に気づくと
「『精神』という映画好きでした」
とかいうのだ。
 そのシーンを見たとき、よく考えれば、映画監督に対するときのふつうの態度って、こういうことのはずだよなと思った。
 あと、民主党の候補なんかは、カメラに対して、
「ちょっと選挙制度についてひとこと述べさせていただいていいですか」
みたいなことをいう。このシーンは、映画館でも笑いが起こっていたシーンだったが、でも、この映画の面白さの核は、実は、そこであって、選挙制度の矛盾を気が付きながらも体現している、あの民主党の候補は、首までどっぷり‘政治家という身分’に漬かっている自民党候補より、たしかにわたしたち一般人に近いと言える。民主党の失敗は、政治のシステムをわたしたちの感覚に近づける何の戦略も持ちえなかったことだろう(鳩山由紀夫は政治家のなかでも‘特に’ふつうじゃないし)。
 この2つの映画の主人公、山さんが、小泉構造改革を成功させたいと願い、原発事故のときには、脱原発を訴えたいと願う、その気持ちは、わたしたち一般の日本人のすなおな心情だと思う。問題は、その心情が政治に反映されない、たまに反映されると、マスコミにはポピュリズムだと揶揄される、奇妙な政治の仕組みにある。それは、野口悠紀雄が「1940年体制」と名付けた官僚支配の構造だとわたしは思っているが、これを変えていくには、遠回りのようでも、わたしたちの思いを裏切らない政治家を選挙で選んでいくしかないと、確かに思った。
 「選挙2」には、「選挙」のときにはいなかった、山さん夫妻のお子さんがでてくる。
 選挙活動にお金がかけられない今回の山さん夫妻が、期限ぎりぎりに選挙ハガキを出そうと、郵便局で宛名書きをしているときに、ぐずついて泣き始めた子供を、あやしてなだめるふたりの態度に感心した。そこにも小さな政治があるわけ。
 泣き出した子供の心をなだめて穏やかにする忍耐力と包容力を、その身分にある日本の政治家のうち、いったい何人が持ちえているだろうか心許ない。