『渡辺崋山』のつづき

knockeye2013-09-16

 ドナルド・キーンは「日本の友人たちに渡辺崋山について本を書くつもりだと言ったら、誰も意外な顔をしなかった。」とこの本を書き始めている。しかしどうなんだろう。現時点で、私は若者ではないのはもちろん、若者のアニキ的世代ですらないはずだが、渡辺崋山の名が聖徳太子とか、一休さんとか、織田信長とか、葛飾北斎とかの名前と同じくらい一般的かといわれると、どうもピンとこない。
 Wikipediaには「太平洋戦争以前の修身の教科書に掲載され、忠孝道徳の範とされた」とあるが、その一方では、蛮社の獄自由民権運動との連想で取りあげられ、渡辺崋山の名は太平洋戦争中、左翼運動の隠喩でもあったらしい。そう言われるとなるほどと腹に落ちるものもある。
 わたしは、修身も左翼も鼻で笑う、まっとうな価値観を持ち合わせているが、なぜいま彼らが鼻で笑われるかといえば、右翼だ左翼だと言いながら,イメージとしては、要するに渡辺崋山しか持ち合わせがない、まさにこの部分だろうと思う。
 渡辺崋山自身は、画家として独創的であり、政治家として有能であり、明治維新の先覚者だと言っていいと思うが、この人を、冤罪と言うより、ほとんど冗談としか思えないような経緯で、切腹にまで追い込んだ、当時の日本社会の倫理観は、わたしには異様にしか思えない。
 ひそかに切腹していた崋山を最初に見つけるのは実母である。介錯がいないため、のどを突いて突っ伏していた崋山を見て、「なぜ婦女子のようにのどを突いたか」となじるが、腹からはみ出した腸を整えて衣服をただしていたことに気づいて、「それでこそ我が子」と言ったという。
 武士道というもののグロテスクさは、フォロワーシップだけがあって、リーダーシップがないその価値観にあると思った。武士道においては、何が正しいかとか、どう進むべきかとかといった建設的な発想は、はじめからまったく問題意識にない。どんなアホな事でも、言われればやるのが侍なのだ。侍の語源は「さぶらう」という動詞の連用形で、英訳すればまさにフォロワーだろう。
 つまり、武士道はフォロワーとしての哲学であって、リーダーが負うべき責任という意識はなく、リーダーとしての哲学は、儒教という外来の思想がうけもっていて、もっぱら文献的であり、実践的だったとは思えない。「世の中にかほどうるさいものはなし、ぶんぶというて夜も寝られず」という大田南畝狂歌は、そうした背景があってこそ、世に受けるものだろう。「文武」などというものがお題目だけで中身がないという常識があるからこそ、これが笑える。
 全員がフォロワーで、行為そのものの是非については常に与えられる側で、個人が判断する余地はない。裏返して言えば、善悪の判断は他人任せで、個人は責任を負わない。おそらく、この社会には、どんな責任感もうまれないだろう。
 日本の政治を長い間決めていた武士社会は、フォロワー同士がお互いに牽制し合った結果、ブラウン運動みたいな感じに物事が進んでいった社会だった。武士道とは死ぬことと見つけたりとか言って、どや顔してる奴など本格的なアホである。
 その矛盾の象徴であるかのような渡辺崋山が、戦時中、右翼にとっても左翼にとっても、イコン的な存在だったと聞けば、この人たちの運動の挫折は約束されていたようなものだ。
 日本の政治家には、リーダーとしてのリスクをとろうとするものが極端に少ないし、また、一般の国民も、そうしたリーダーよりも、闇将軍とか陰の実力者とか言う存在の方を評価する。
 小泉純一郎橋下徹、あるいは、渡辺喜美もそうかも知れないが、この人たちがバッシングされる、社会的な根拠は、政策の是非よりも、まず、積極的にリーダーとしてのリスクをとる、その姿勢なのだ。簡単に言えば、わたしたちの社会では、生意気か、生意気でないか、が、最も決定的な評価基準なのだ。
 竹中平蔵橋下徹に向けられる憎悪は、ほとんど本能的なものに見える。いま、こういうわたしたちの社会の根強い島国根性を、すくなくとも、自覚しておかないと、まずいことになるだろうなと思う。
 この本は口絵に渡辺崋山の絵も多く掲載されている。写実的でとくに肖像画は当時から非常に人気があったそうで、藩の家老に抜擢されるときも、画業に専念したいがために、いろいろと口実を設けてことわろうとした書状が今に伝わっている。
 鏡を二枚使って描いていたとあるが、実際にどのような技法だったのか,この本ではよくわからなかった。

 鷹見泉石、佐藤一斎、市川米庵などの肖像画が有名だし、たしかに名画だが、この絵は松崎慊堂、なんともたよりなさそうだが、渡辺崋山を救おうと最後まで奔走したのはこの人だけだったそう。人は見かけによらない。