仙がいと禅の世界

knockeye2013-09-27

 先週末、出光美術館に仙がい(崖の山がない字)の絵を観にいった。
 頭の中で仙がいと白隠がいっしょくたになっていたことがあって、ときどきいいけど、ときどき臭いなと思っていたのが、気が付いてみると、いいと思っていたのは仙がい、臭いと思っていたのは白隠だった。
 ‘臭い’というといささか不穏だけれど、白隠の絵はややもすると自意識がすけて見える。ふたりの自画像を見くらべると感じは伝わると思う。
 仙がいの自画像は

こんな感じ。
 「仙がいそちらむひてなにしやる」と賛がなければ自画像といわれないだろうし、そもそも肖像画ですらない。
 あるいは

端が切れてて恐縮だけれどこんな感じ。賛は「九左かまたはか云」で、九左という人がいたんでしょうな、その人がまたバカなことをと、これはどういうことかというと、仙がいの絵は大変に人気があったので、絵を描いてもらおうと訪ねる人が引きも切らなかったようで、
「うらめしや我が隠れ家はせっちんか 来る人ごとに紙おいていく」
狂歌に詠むほど。この「せっちんか!」という突っ込みのセンスがよいが、それはともかく、九左とは、そんなふうに紙を置いていったひとりなんでしょうな。
 さすがにたまりかねて、一時は「絶筆塚」という碑まで建てて絵を断ろうとしたようだけど、結局、亡くなるまで描き続けていた。だいたい、その絶筆塚の絵にしてもすでに二枚展示されていました。
 「わが隠れ家」と言っているのは終の棲家となった虚白院、

これは「虚白院独居画賛」て絵で、「ひとり生まれひとり死ぬると思う我が むすべる庵にひとり住むなり」。62歳で聖福寺の住職の座を弟子に譲って境内の庵に隠居した。
 1750年生まれの仙がいのその時代、禅僧の生き方がどういうものだったか想像してみるしかないけれど、もともと美濃に生まれ、11歳で得度、19歳のとき、当時の武蔵、今の横浜にあるお寺に移って修行をつづけたが、師匠の‘遷化’(というから死んだんだと思うけれど)を機に諸国行脚の旅に出た。32歳のとき。本家本元の諸国行脚で、小泉進次郎が選挙の時にするあれとはちがう。
 この諸国行脚をだいたい八年くらい続けた後、博多の聖福寺の住職になって、88歳で亡くなるまでここで暮らした。
 聖福寺は,臨済宗の祖、栄西が帰朝後はじめて建てたお寺だったが、仙がいが123代目の住職になった当時はけっこう廃れていたのを復興させた。生涯に大蔵経を三度読んだ。大蔵経は奈良で玄奘三蔵の展覧会のとき目にしたが、あれを全部読むこと自体がまず途方もない。何度も紫衣勧奨を受けるが、辞退して生涯黒衣の僧で通した。これらのエピソードは、当時の博多の人たちの仙がいに抱いていた敬意の念を示している。
 展覧会のガラスには、絵についての詳細な説明がいちいちつけられていて、ためになって面白いが、まったくわからないまま絵だけをみてまわっても、仙がいという人の魅力は伝わる。むしろ、その方がいいかもしれない。この絵を欲しがった当時の人たちの中にも字が読めない人がいたかもしれないし、中国のお坊さんがどうしたこうしたのエピソードも知らなかったかもしれない。でも、ほしい気持ちにさせる絵だ。出光佐三の最初のコレクションが仙がいの「指月布袋画賛」、最後のコレクションが「双鶴画賛」だそうだ。
 仙がいは石マニアでもあったそうで、遺愛の石ころが一個展示されていたけれど、仙がいの絵の魅力はこの石ころの魅力と似ている気がする。見れば見るほど味が出る。
 仙がいの絵を観ていると、ふと、いま観ているものは何なんだろう、この絵を見ている私はいったい何なんだろう、みたいな、ちょっと他の画家の絵では味わわない不思議な感じになる。それを‘禅機’とまで言うつもりは毛頭なないけれど。
 今、思い出したけれど、メリル・ストリープが、映画「マーガレット・サッチャー」のパンフで、「・・・つまり禅ですね」と言っていた。不思議なことを言うと思った。