TOKYO 1970 by Japanese Photographers 9

knockeye2013-10-09

 「日本の巨匠たちがとらえた1970年代の東京:『TOKYO 1970 by Japanese Photographers 9』」という写真展。銀座のアルマーニ/銀座タワーという、私なんかにはちょっと気後れがする建物なんだけど、まあ、観にいってきた。
 アルマーニ渡辺克巳の「新宿群盗伝」とか、どういう取り合わせ?っていう面白さもある。つまり、世界をアルマーニと「新宿群盗伝」で分割したとすれば(?)、わたしは後者に分類されると思うのだけれど、いうまでもなく、世界はそんなに単純に割り切れないけど。
 関東に暮らし始めて、いちばん違和感を感じたのは、新宿という町で、「なんだこのきったない町?」という、あれだと、大阪の天王寺とかのほうが,お寺があるだけまだ風情があるし、難波とか心斎橋とかもうちょいせまくるしくて、けばけばしい感じとか、道頓堀があるぶん、しっぽりしている。
 でも、たぶんそれは、わたしが酒を飲まないからだろうとは、うすうす分かってはいた。新宿が新宿たるゆえんは、たぶん,夜にあるのだろうとは思ってみても、それをさしひいても、新宿という町には、身内で傷をなめ合っているような、甘えのような気配を感じて、好きになれないでいた。
 最近、椎名誠の『風景は記憶の順にできていく』

という本を読んで、これはとくに新宿について書いている本ではないけれど、最終章が新宿になっていて、ああそうか、なるほどなと、なぜ自分が新宿が嫌いか、ていう部分が納得できた気がした。
 ここはやっぱり高度経済成長で肥大化した町なのだった。私には、世代的な反発があって、高度成長の悪い部分が目についてしまう。このつけが自分たちに回されている意識がなかなかぬぐえないのだろう。
 酒、たばこ、女、ていう、今ではたぶん通用しない、時代限定のイニシエーションが,その街を象徴的にしていたということで、そういうノスタルジーとして、いまはそれを眺められるのではないかと思った。
 それは、渡辺克巳の「新宿群盗伝」の写真を見ながらも,そう思った。新宿という町がおしつけてくるイメージが弱くなって、そこに写っているひとりひとりの個性が、すなおに感じられるようになったからだろうと思う。
 ひととおり見終わって、この展覧会は、写真を買うこともできるので、値段表をちらりとみてみたら、やっぱり、っていうのも変だけれど、寺山修司の作品がいちばん安かった。こういう作品の市場価格は、いろいろな要素できまるわけだから、ここで安いからといって、価値がそのまま反映していることにはならないけれど、ただ、私の予断と一致するものだった。寺山修司は「草迷宮」っていう映画をみたことがあって、あれは好きだけれど、写真はキッチュにとどまってるかも。ただ、さっきの渡辺克巳の写真のなかに、寺山修司ポートレートもあったな、たしか。
 細江英公四谷シモンを写した写真、まとめて観るのははじめてだけれど、これは、まわりで‘ひいてる’人たちが,むしろ面白かった。あれはたぶんそういう写真だろうな。
 そういう意味では、沢渡朔の「Kinky」は、写真のおもしろさは、モデルも背景も被写体として同価なので、まわりの原っぱとかも‘こみ’の味わいが、今は強くなっていると思う。なんでもない原っぱでも、今の目には、美しく見える。
 有田泰而の「First Born」が、写真としては、ずぬけてよかったので、写真集を買った。検索してみたら、ほぼ日刊イトイ新聞でも、とりあげていたので、リンクをはっておきます。



First Born

First Born