Twitterのお話

knockeye2013-10-11

 村上隆がTwitterでえらく‘ディすられ’ている、について、いまから書いてみようとしているのだけれど、ただ、大前提として、そもそも、そんなにバッシングがひどいのかどうかだけれど、わたくしおもうに、Twitterに限らず、あるいは、インターネットに限らず、どんな道具でも、どんな機会でも、ひとの悪口を言ったり、嫌がらせをしたり、といったことにしか喜びを見いだせない人種が少数派でなければ、どうにも困ったことなのだし、大多数のひとは、村上隆の活躍について、へぇ、すごいなと思っているだけだと思う。
 それはたとえば、宮崎駿の「風立ちぬ」が公開された当初、駄作だ、駄作だ、と、わめいた連中がいたんだけれど、ほんの一ヶ月くらい前のことなのに、みんな忘れてるでしょ?。いま、ふりかえってみたら、あれ、かなり恥ずかしいよ、そう思わない?。だけど、あの瞬間だけは、Twitter上で、あれが多数意見みたいにみえていたわけ。だけど、実態は、多くの人は、ただスルーしてたわけよ。相手にしたったしょうがないんだもん。
 そいで、あたしも気が乗らないのは、こんなことについて書く意味があるのかと思うと、無意味だと囁くものがあるわけだけど、ただ思い返してみれば、それいっちゃうと、このブログ全部が、はじめから無意味なわけだからさ、じゃあ、まぁ、書いとけ、ってことである。
 で、前置きでここまでぶっちゃけちゃうと、この先書くことがなくなってるんだけれど、まず、一般論として、いじめ(バッシングを広い意味でのいじめと捉えれば)をする人間は、尊厳についての意識が低い。それは、他者の尊厳にかぎらず、自己の尊厳についても同様で、自分に自信がなく、コンプレックスを抱えている。それは本来、その人の内的な問題なんだし、自分一人で解決するしかないのだけれど、いじめをするひとは、そういう本質的な努力をせずに、他者との関係性のなかに、その解消法をもとめる。要するに、他人を故意におとしめるわけ。
 そういうとき、その対象に選ばれた他人こそ、いい迷惑だけど、身勝手で独善的な価値観で、自分のコンプレックスを投影できる相手を選ぶわけだろう。つまり、今回の場合でいえば、アニメオタクは、アニメ文化をとっかかりにして、村上隆に自己のコンプレックスを投影する。おそらく、村上隆をバッシングしているアニメオタクは、‘あんなのオレでも描ける’と思ってるのだろう。アニメ以外にテイストがない、狭い視野と浅い経験から判断すれば、そういうとんでもない迷信も可能になる。「なにがいいのか理解できない」とかいって、「理解できない」ことを自慢しても仕方ないのだけどね。
 これを書きながらなにが空しいかといえば、どんな人間も、理解できることより、理解できないことの方がはるかに大きいわけですよ。そのときに、理解できる小の部分を振り回して、理解できない大の部分に置き換えようとしても意味がないわけですよ。理解できないことについて、つねに謙虚で、好奇心を開いていないと、その先にどんな可能性も生じないわけで、だとすれば、生きている意味がない。
 「オレは誰よりもアニメを知ってる」みたいなことで、世界的な名声を得ている芸術を誹謗中傷って、そんなことして何になるの?。「小さい」ってつまりこういうことなんだよな。