昨日の付け足し

knockeye2013-10-15

 昨日、書いた後で自分のブログを検索してみたら、‘手をつないで走る徒競走’について書いたのは、2010年だった。そんなにむかしでもなかった。

先日、国際教養大学中嶋嶺雄村上龍の対談を聞き書きした(やっぱり教育は立て直さなきゃと思う)。
そのとき、ゆとり教育について、ちらっとふれたと思うのだけれど、あのあと思い出したのは、ゆとり教育‘華やかなりし’ころの小学校の運動会では、徒競走といいつつ、‘順位をつけずに皆で手をつないで走るのだ’というのをテレビでみた記憶である。
そのときは、‘学校てのはあいもかわらずばかなことやってるな’と鼻で笑っただけだったのだけれど、今にして思えば、現にその教育現場にいた子どもたちにとっては、その大人たちのやり方こそ権威だったはずで、そのころの小学生がそれを大真面目にやっていたであろうことは無理からぬことだった。
そして、そういう教育が彼らのマインドの基礎の部分をかたちづくったのだと思うと、少し背筋が寒くなる。
手をつないで走る徒競走が、権威が彼らに示した正義であるとすれば、その手を振り払って、もっと先に行こうとする誰かは、彼らの実感として、たしかに‘悪’であるにちがいなかった。
学校教育がこどもたちに植えつけるその種の正邪の感覚、プロパガンダといってもいいそういうものは、多くの場合、子どもたち自身が長ずるにつれて、彼ら自身の中で批判が芽生え、やがて止揚されていくものである。
ところが、それでも何パーセントかの人間は、子どものころに植えつけられた価値観そのままで人生を全うする。
そういう人間はバカだと思うのがもっとも正確だとわたしは思う。
たとえば、偏差値至上主義で教育された人間が、いまだに偏差値以外の価値観を持っていなかったとしたら、ずいぶんうすっぺらだとおもうけれどどうだろう。
昔テレビで観た、手をつないだ徒競走のすがたを思い浮かべたとき、高遠菜穂子さんや国母選手をバッシングした連中のこころのありかたが、わたしにはわかった。
高遠菜穂子や国母選手は、彼らのつないだ手を振り払おうとしたのだ。わたしや、またおそらく多くの他の人には理解できない、彼らの肉体的憎悪は、そこから生まれたのだ。
格差社会’という実態のよく分からない言葉の意味も、そう考えていくとかなりはっきりと分かる。
手をつないで走る徒競走がスタンダードなら、確かにこの社会は‘格差社会’だろう。しかし、それは現代の日本だけに限らない。手をつないで走る徒競走が競争だと信じているマインドの子どもたちにとっては、世界中のすべての社会が‘格差社会’であるはずだ。わたしが彼らにいってあげられることがあるとすればこういうことだ。あなたたちのいう‘格差社会’が現実の社会であり、手をつないで走る徒競走のほうが圧倒的に異常なのだと。

http://d.hatena.ne.jp/knockeye/20100406

下流志向』を読んで「オイゲン・ヘリゲルの『日本の弓術』を連想した」みたいなことを書いたが、アマゾンの『下流志向』の関連図書に『日本の弓術』が出ていてビックリした。案外みんなそう思うんだなぁとか。
以前、このブログで
「たぶん、日本人にとっては、‘フツーの日本人像’というのが空のどこかに浮かんでいて、自分がそれから少しでもはずれていると思うと不安で仕方なくなるようだ」
みたいなことを書いて、
「日本は‘格差社会’というより‘格差過敏社会’だと思う」
みたいなことを書いた。
内田樹の『下流志向』を読むと、そういう心理がどこから生まれてくるのかがよく分かる。
戦後日本の高度経済成長を支えた社会構造は、野口悠紀雄の『1940年体制』に分析し尽くされていると思う。
だから、あの本を読んだ後に内田樹を読めば、内田樹が書いているような精神構造は、野口悠紀雄が分析した社会構造が、まさに、育んだだろうということに思い至るはずだ。
1940年体制という戦時非常体制が、戦後も半世紀の長きにわたって破綻なく持続できたのも、近代工業化社会という、進んでいくべき具体的な目標があればこそだった。
しかし、社会が近代工業化を達成して、目の前の目標が見えなくなったとき、膨張していくことで保たれていた均衡が破れ、構造がメルトダウンしたのではないか。
日本人が‘フツー’に豊かになったとき、‘豊かさ’だった目標は、いつのまにか‘フツー’にすりかわってしまった。上を向いていた目は、いつしか横を向くようになった。だって、‘フツー’は上でも下でもない、横にしかないはずだから。
‘フツー’でありたいという渇望、そして、‘フツー‘じゃないと思われたくないという恐れ。これらがいかに厄介かは、まだここにないはずの‘豊かさ’と違い、‘フツー’は、すでにあるはずのものだということを考えれば分かる。すでにあるものを目標にすることはできない。だから、‘フツー’になろうと努力することはできない。できるのは、‘フツー’のほうを自分に引き寄せるための、「自分は‘フツー’だ」という概念の操作だけである。
‘豊かさ’も‘フツー’も、ともに幻想であるには違いないが、‘豊かさ’が努力を促す幸福な幻想だったのに対し、‘フツー’は、内田樹のいう「学びからの逃走」と「労働からの逃走」にしか向かわない、悪夢だったのではないかと思う。
格差社会’の正体とは、つまり、幻想としてしか存在しない‘フツー’を、現実にある‘格差’に置き換える、概念操作に過ぎなかったと私には思える。
自分が‘フツー’だと思いたいために学ばない。自分が‘フツー’だと思いたいために働かない。そして、‘フツー’を自分のほうに引き寄せるために、そこから少しでもはみ出るような、独創的な努力をする人たちをバッシングする。そこに感情的な呪詛が含まれるのはそのせいだと思う。
高遠菜穂子さんの事件が起きたとき、ショックを受けたと公言している人も多くいた。
映画「ぐるりのこと。」の橋口亮輔監督が
「日本人はいつからこうなったのか」
と書いている文章は以前にも引用したし、鴻上尚史
「日本人をやめたいという人が周囲に増えた」
的なニュアンスのことをSPA!の連載に書いていたのを憶えている。
最近では、たとえば、国母選手がちょっと制服を着崩しただけでバッシングされるのは、彼が‘フツー’に敬意を表さなかったからだと私には見える。それは、‘フツーであること’以外に価値を見出せなくなった連中(高度成長時代の残滓のような)の断末魔の呪詛なのだと私は思う。
以前紹介した大橋巨泉のコラムを憶えておいでだろうか。彼は、
石川遼が高校の授業に出ないのがけしからん」
と非難したのだった。
石川遼は、マスターズに出場するほどのプロゴルファーである。その彼がなぜ高校の授業に出席する必要がある?
ましてや、なぜそれを赤の他人にとやかく言われなきゃならない?
冗談にしか思えないが、これがもっともらしく聞こえる場合がありうるだろうかと考えてみれば、たしかに、私が高校生だった70年代ころは、「学生は学生らしく」とか、「授業は学生の本分だ」とかいわれたものだった気がする、昔すぎてわすれているけれど、確かにそんな時代があった。
「詰襟のホックをしめろ」とか、「髪の毛が耳にかかったらダメ」とか、「靴下にラインがあったら・・・」どうたらとか。
私の弟が高校生だったころ、真冬にコートも着ずにでかけようとするので、
「着ていけよ」と声をかけると、
着ていったら教師が「泣く」と苦笑いしていた。文字通り、朝礼で泣いて訴えた教師がいたらしい。寒くても制服だけで我慢しろと。そんな時代・・・。
考えてみれば、その教育のありようは、先ほどまで述べてきた、野口悠紀雄内田樹の分析に直結している。教育も含めて、社会構造全体が、単一の目標に向かって規格内におさまる生き方を人々に求めていた。
それが時代だから仕方がないというなら、賞金王争いをするプロゴルファーだろうが、オリンピックの代表選手だろうが、‘フツー’の前にひれ伏せという意見が、今という時代に、おそろしくバカに見えるのもまた仕方がないのではないか。
目標を見失って、横並びの‘フツー’のために足を引っ張り合い、学びから逃走し、労働から逃走して、独創的な人間には呪詛のことばを浴びせかける。それが‘格差社会’を叫ぶ人たちの正体ではないだろうか。
「しょうがねぇなぁ」という国母選手の意見がもっとも正鵠を射ていると私には思える。たぶん、「しょうがねぇ」時代を私たちは生きている。

http://d.hatena.ne.jp/knockeye/20100315#p3

「それ勉強して何の役に立つの?」
という古典的愚問には、わたしはごく若いときから即答できた。
「じゃあ、てめぇ自身は何の役に立つんだ?」
ただ、残念ながら誰も私にはこの愚問をしてくれたことがない。都市伝説のようなものだと思っていた。
もし、有用か無用かだけを森羅万象の基準にするなら、一行の数式、一文字の漢字より有用である人間なんて滅多にいない。
ましてや、「勉強がなんの役に立つの?」なんて、恥ずかしげもなくベタな質問を口に出来る人間は、まとめて焼却炉に投げ込まれても、気にかける人とてないだろう、もし、有用か無用かだけがすべてならば。
そもそも、学ぶことの背景には、自己の存在意義への問いかけがあるはずだ。
なんであれ他者に対し
「それに何の意味があるの?」
と問う人間は、自分の存在価値を疑ったことがないに違いない。何の根拠もなく自分の存在意義を確信していられるのは子どもだけだし、その意味でこの愚問は、とりもなおさず、自分がまだ子どもであると宣言しているようなものだ。

きのう紹介した橋本治の対談集で、高橋源一郎が「目からウロコ」と言っていたので、買ってみたのが、この本。
著者が武道家でもあるということもあり、オイゲン・ヘリゲルの「日本の弓術」を思い出した。
あの本は、千年に一度あるかないかの、東洋と西洋の知性の幸福な邂逅というべき内容で、ああいう体験をすれば、月の虹とかそんなものを見た人と同じように、人に語らずにはおられなかっただろう、そういう本である。今でも岩波文庫で手に入るみたいだから、未読の方は読んでみて損なことはない。
内田樹のこの本は、講演の口述筆記である点も「日本の弓術」と似ている。

第一章 学びからの逃走
第二章 リスク社会の弱者たち
第三章 労働からの逃走
第四章 質疑応答

特に第一章は、わたくし‘学校’というものから遠ざかって久しいために、一般的な学校の現場を知ってびっくりしてしまった。

 それまで新聞で読んだりして、「そういうことがあるらしい」と話では聞いていたのですけれども、要するに全級一斉の授業というものが成立していないわけです。教壇の近くの十人ぐらいだけが、先生がしゃべっている授業を聞いていて、後ろの方の、残りの二十五人ぐらいはほとんど授業を聞かないで、居眠りしたり、立って歩き回ったり、おしゃべりをしたり、マンガを読んだりしている。授業参観ですから、当然後ろにはその子どもたちの親が来ているわけです。ずらっと親が並んでいる前で、先生が教壇で授業をやっているところで、子どもたちがふらふらと立ち歩いている。僕にはよくそのことの意味がわかりませんでした。

これは、著者の授業参観の体験。
また、著者が担当するゼミの学生が教育実習にいった学校での授業を垣間見た体験は、

・・・生徒たち全員が、これ以上だらけた姿勢を取ることは、人間工学的に不可能ではないかと思われるほどだらけた姿勢で立ち上がり、いやいや礼をし、のろのろ着席する。僕はこの精密な身体技法にほとんど感動してしまいました。「きちんとした動作をしたせいで、うっかり教師に敬意を示していると誤解される余地がないように」この生徒たちは全力を尽くしている。ただ怠惰であるだけだったら、人間はこれほど緩慢には動けません。必要以上に緩慢に動くほうがもちろん筋肉や骨格への負担は大きい。ですから、これを生徒たちが生理的に弛緩していると解釈してはならない。これは明確な意図をもって行われている記号的な身体運用なんです。

目の前で見ているものの意味が分からない。衝撃的である。
この本は、その意味を読み解いていく、いわば、知的冒険譚である。

・・・子どもたちはいまや経済システムから直接メッセージを受け取っている(教育されている)。学校が「近代」を教えようとして「生活主体」や「労働主体」としての自立の意味を説くまえに、すでに子どもたちは立派な「消費主体」としての自己を確立している。すでに経済的な主体であるのに、学校へ入って教育の「客体」にされることは、子どもたちにまったく不本意なことであろう。

著者自身が、<過去10年間教育について読んできた中でもっとも啓発的な言葉>と紹介している、諏訪哲二の『オレ様化する子どもたち』のこの言葉がここに展開される論理の重要な核のひとつであるだろう。
今の子どもたちは、ものごころついたときからすでに消費的主体としての自我を確立してしまっているために、受けたくもない授業を受けるという‘対価’を払って、なぜ‘学び’を‘買わなければならないのか’がわからない。したがって‘何の意味があるかわからない’欲しくもない‘学び’のために不当に‘対価’を払うまいと努力する。
日本の子どもたちにとって、学校がそういう場所にすぎず、その背後に、その子どもたちと同じメンタリティーをもった、いわゆるモンスターペアレントが控えているのだとしたら、日本という国の社会がどのようなものになるのかが、ある程度分かる気がしないだろうか。

無意識的かもしれませんが、競争ということを優先的に配慮した場合、同学齢集団の学力がどんどん下がることを、子ども自身もその親たちも実は願っているのです。
(略)
その無意識な欲望が子どもたちの学力低下心理的に後押ししていることを誰も気づいていないだけです。

野口悠紀雄が指摘するように、戦後も生き残った1940年体制が高度経済成長をささえたのだが、先進国と肩を並べて目の前のロールモデルがなくなったとき、この官僚主導体制は内側からメルトダウンし始めた。その一端がこの学力低下に顕れていると見ていいのだろうと思う。
餌をなくした盲目の蛇たちが‘共食い’をはじめたとしても驚くにあたらない。
今まで何度も書いてきたように、私は日本を‘格差社会’と呼ぶことにどうしてもひっかかりがあった。
もちろん、格差のない社会はないし、日本にも格差があるには違いないだろうが、それでも、‘格差社会’という視点は、今の日本の諸問題を読み解くキーワードにはならなくて、むしろ、重要なポイントを覆い隠しているのではないかと思ってきた。そこで、日本はむしろ‘格差社会’ではなく‘格差過敏社会’だなどと書いたりもした。
しかし、教育の現場で、‘努力して学びから逃走しようとする子どもたち’と、限定されたテリトリーで優位に立つことを最上の課題として‘クレーマー化するモンスターペアレントたち’が、美しい日本の親子の実像であるなら、横並びのまどろみから揺り起こされることへの憎悪こそ、ヒステリックな‘格差社会’という合唱の深層心理だったのだろう。

http://d.hatena.ne.jp/knockeye/20100309#p1