『市場と権力』

knockeye2013-10-28

 『市場と権力』という本が出てるのは、週刊現代の書評で知っていた。竹中平蔵の、ぶっちゃけていえば、身上調書みたいなもので、このときの書評に「竹中平蔵がなぜ改革に熱心なのかよくわかった」みたいなことが書いていて、ウゲッ、て、ひさしぶりにかなりの胃液こみ上げ感だった。
 だってね、竹中平蔵が改革に熱心だ、について、それは彼が和歌山の下駄屋のうまれだからだ、という本を読んで、はいわかりました、とすませてしまう、その知性の態度について、何の疑問も感じないのか、この書評子はと思うと、さすがに大丈夫かと。
 で、そのまま忘れてたわけだけど、なんとまあ、その本が新潮ドキュメント賞を受賞したそうで、なんともおめでたいことである。
 それを知ったのは、週刊スパ坪内祐三福田和也の対談なんだが、坪内祐三
佐野眞一なんかも、橋下徹さんや孫正義さんのことを書いたとき、その出自を話題にして『こういうコンプレックスがあったから頑張った』というふうに書いちゃうわけ。」
と、日本のノンフィクションの悪しき伝統だと言っている。
 私に言わせれば、お見合いの時の興信所の調査と何にも変わらないと思う。
 政治の主権者はこっちなんだから、わたしらは、改革の内容について吟味すればよいんであって、その行政に携わる人が、下駄屋だとか、部落だとか、性格悪いとか、それは、江戸時代の庶民の憂さ晴らしならそれでいいかしれないけれど、主権者の政治意識として、その視点はどうよっていう話。
 ただ、坪内祐三
「竹中さんは欲望の中心が見えない」
といってるんだけど、だけど、‘欲望’っていうその視点が、すでに、もう相対化されていいんじゃないかと思う。つまり、‘欲望’が人間の中心だと考えなくてもよいでしょう、もう。
 それで思い出したのは(なぜ思い出したのかよくわからないかもだけど)、こないだ読んだ石原千秋の本にあった、
「近代とは性に関わる言説が真実の言説となった時代だ」
というミシェル・フーコーの言葉(『性の歴史』)。
 この言葉についての大橋洋一(『新文学入門』)の説明が気に入ったのだけれど、要するに、もし、あなたが仕事の帰りに立ちよったスーパーで、知り合いがコーラを買っているのを見かけても、その人について何かが分かったとは思わないだろうけど、そのスーパーの駐車場で、その人が男を買ってるのを見かけたら、その人の‘真実’を知ったと思うはずなのだ。
 近代という時代、わたしたちはそのように、その人の欲望の在処から、その人の真実を特定してきたわけだった。でも、それはほんとかな?って、そろそろ態度を保留し始めていると思う。
 近代の俗説は、フロイト的な性欲と、マルクス的な財欲が、人間の人格を統べていると信じてきたわけだけれど、マルクスフロイトの真意にかかわりなく、さらに、その俗説の有効性にもかかわりなく、なんだか、それは、今という時代の実感と微妙にずれ始めている気がする。
 坪内祐三が、竹中平蔵について「欲望の中心が見えない」から不気味だというその感じは、つまるところ、人間をタマネギの皮をむくようにむいていけば、結局その芯に万人共有の欲望があり、その共感に安心したいという思いではないかと思う。
 それはある意味では、近代文学の態度であったとも言えるかしれない。そして、現代の作家のほとんどはそれを否定しているだろうと思う。
 どうせなら、同じ対談でふれられていた『謎の独立国家ソマリランド』の方がよい。実は、その本を読み始めていたのだが、引っ越しのどさくさでどこにしまったか分からなくなっている。