井戸茶碗、六本木クロッシング

knockeye2013-11-10

 根津美術館で「井戸茶碗 戦国武将が憧れたうつわ」という展覧会が開催中、12月15日まで。井戸茶碗が、大井戸、小井戸、青井戸あわせて74点展示されています。これほどの数が一度に展示されることはちょっとないでしょう。
 ‘枇杷色’と呼ばれる明るい釉薬、野性的に胴をめぐる‘轆轤目’、窯の火の記憶をのこす高台の‘梅花皮(かいらぎ)’、井戸の茶碗は、朝鮮半島でつくられ、16世紀頃に日本にもたらされ、茶の湯の世界で珍重されてきた、もはや名宝だけれど、その「井戸」という呼称の由来をはじめ、朝鮮半島のどこで作られ、もとは何のために用いられていた器なのか、また、どのようなルートで日本にもたらされたのか、など、くわしいことはいまだにほとんどわからないそうなのだ。
 朝鮮半島にはごろごろある雑器なのかと思っていたが、そうではないらしい。それどころか出土例すらあまりないらしい。図録を読んで驚いたのだけれど、そもそも陶器か磁器かでさえもはっきりしていないようなのだ。
 井戸の茶碗は、日本のアートにとっては、厳然としてゆるぎない答えで、それがすでに16世紀に与えられてしまっていることの意味から目をそらしてはいけないと思った。
 実のところ、16世紀の人たちも、この答えを発見したのであって、発明したわけではなかった。
 答えから問いに遡っていくことは、すでに問いではないから、これに向き合う人は、問いそのものを問うしかないだろう。ゆるぎない答えを前にして問いを問う。
 それが美の伝統であることはあたりまえのようだが、そのあたりまえのことに、一回性で不完全な生を投げかけることができるかと考えると、おそろしく厳粛な気持ちになる。そのような覚悟で生きた茶人もいるんだろうなと思うと。
 わたしたちは、たぶん、これに対峙しているとさえいえない、この器の前にあっては、わたしたちの存在などは、ノイズのようなものにすぎないだろう。
 逆に言うと、そんなすぐに消えていく泡のような存在として、これに対することができるともいえる。
 今年はなんか暖かいと思う。根津美術館の庭は、ニシキギ(だとおもう)が紅くなっていたくらいで、楓は色づき始めたところくらい。表参道のケヤキも少しずつという感じ。でも、カメラを忘れた。
 森美術館で「六本木クロッシング」。さすがに、根津美術館から六本木ヒルズへは歩いて行けるようになった(逆は無理、目標が見えないから)。
 六本木クロッシングは、3年に一度の‘日本のアートシーンを総覧する’オムニバス的な展覧会。今回は、「アウト・オブ・ダウト 来るべき風景のために」というテーマ。
 横浜トリエンナーレがどんどんどうしようもなくなるのに対して、こちらはだんだんなりあがる印象。私見だが、役人が口出しするとダメになるんじゃないかな。キュレーターのセンスが大事だと思います。ちなみに今回のキュレーターは、片岡真実(森美術館チーフ・キュレーター)、ルーベン・キーハン(クイーンズランド・アートギャラリー | ブリスベン近代美術館アジア現代美術キュレーター)、ガブリエル・リッター(ダラス美術館アシスタント・キュレーター) 。
 若い人ばかりじゃなくて、赤瀬川源平とか中村宏の旧作も展示されていた。練馬区立美術館での中村宏の回顧展を見逃したのは残念だった。
 それから、金氏徹平の造形作品は、ワンランク上いっている感じはある。ひとりで客呼べる感じ。
 あと、泉太郎の作品が、なんかひっかかって、私は笑っちゃう。笑わされるっていうか。「バター」っていう作品を、東京都現代美術館で観たことがある。今回のは‘でもなかった’けど。
 サイモン・フジワラも、東京都現代美術館で‘「風が吹けば桶屋が儲かる」っていうわけのわからない展覧会’で、ハックルベリー・フィンについてしゃべっている変な映像作品が印象に残っているのだけれど、今回の「岩について考える」の映像も通しで観て面白かった。
 なんかこの人の作品は、九割九分‘文脈’みたいなところがあって、天の岩戸から、映画「ルルドの泉」にでてくるみたいな聖母マリアの伝説のある洞窟とか、エルサレム聖墳墓教会の「塗油の石」まで考察を繰り広げるし、実際そこまで足を運ぶ。
 エッセー漫画というジャンルがあるけれど、エッセー美術みたいな感じ。
 イギリス生まれの日英ハーフの人で、オーストラリアに住んでいるのかな。
 アートとは何かという文脈が、いまほど重要なときはないかも。昔は、絵っちゃ絵だったわけです。日本の浮世絵が西洋美術にインパクトを与えたとしても、それは、やっぱり絵としてのインパクトだったし、アフリカ彫刻がピカソに影響を与えたと言っても、彫刻っちゃ彫刻だった。
 でも、その後、写真技術は発展するし、それが動くようになるし、それがヴァーチャルに配信されるようになる。
 彫刻についても、土、木、岩、ブロンズだけでなくて、今は、ありとあらゆる素材があるし、それが、建築の変化につれて、展示も多様化した。
 そういうときに、アートとは何かという問いかけ抜きに、ただ絵を描いているのはものすごく空しいわけです。
 だから井戸の茶碗がすごいのは、美とは何かといったときに、これです、というブツがいきなりでてくるところ。あれは無作為なわけだから。誰もあれを美術作品として作ってなくて、しかも、茶の湯という美の文脈の中で、美の道具として使われてきた。あれは美の表現であると同時に、美を表現する道具であって、あれで茶を点ててもてなすんです。
 サイモン・フジワラの「岩について考える」は、文脈としては深いと思うけど、ブツとして、そこまでインパクトあるかどうかだけど、けっこうイイ線いってると思った。松葉杖を刺している岩とか、子供たちの手のプリントのある岩とか、ただ、岩そのもののセレクトがどうかなというあたり、たとえば、重森三玲の小河邸庭園の岩組とかの迫力を考えると、ブツとしての説得力がまだまだかなとか。
 でも、いつのまにか観てるこっちも岩について考えているわけだから、そのへんまで含めて、アートかなと。
 この六本木クロッシングは、撮影OKの作品も多かったのに、カメラを忘れてもったいなかった。iPad miniは持ってたんだけど、あれを持ってうろうろするのも。