「清須会議」

knockeye2013-11-11

 三谷幸喜監督待望の新作「清須会議」を観た。
 この映画は、すっごい前からキャンペーンしていた。「スター・トレック イントゥ・ダークネス」と双璧だろう。「スター・トレック・・・」の方は、最初宣伝していたのと微妙に内容が変わってる気がするのは、気のせいじゃないと思う。
 「清須会議」は、最後はもう選挙のノリで、それはもう狙いだったんだろうけど。でも、映画って、そういうお祭めいたことが楽しくていい、ということも確認させてくれた。
 1700円とか、そういうお金出して観にいくってことは、テレビで観るのとは違うわけで、たとえば、縁日で売ってるベビーカステラとか、あんなの確実に100円ショップで売ってると思うけれど、それを500円とか払っても、つい買っちゃう心理は、せっかく縁日なんだからさってことなんだし、映画はそういうことであるべき。
 松本人志の「R100」は、世評に拘わらず、いままでの松本人志の映画ではいちばんよかったと私は思うけど、何が問題だったかと言えば、今回の「清須会議」のような‘おもてなし’に欠けていた。
 とくに日本では、ダウンタウンはテレビでの露出が多すぎるわけだし、それに、忌憚なく言えば、テレビでのダウンタウンはもう輝きを失っているし、その意味では、松本人志のテレビ出演は映画にとってはネガティブキャンペーンにしかならない。海外で評価が得られるのは、その部分がないのも大きいと思う。これは、北野武についてもほぼ同じことが言えると思っている。
 それで、「清須会議」本編についてだけれど、だからまあ上記のような事情で、‘観にいって損した’という気にはならない状況がすでにつくられているわけで、ワッショイ、ワッショイな感じで観ればいいわけだった。結局、ごくたまにしか映画館に行かない人をどう呼び込むかが興行だから。
 で、こまかいことをいうのも野暮。三谷幸喜監督で、役所広司大泉洋佐藤浩市小日向文世でしょ。そんなにへたはうたない。でも、あいかわらず‘舞台’な感じ。それが欠点では全然ないけど。引いたり寄ったりって感じがなくて、全部等身大みたいな。
 それから、やっぱり、時代劇の映画は、もうキビシイのかなと思ったのは、ある場面で、武士が正座してるんですけど、ありえないと思った。考証とかなんとかいうより、かつての時代劇の黄金時代には、厖大な人材がその背景にいて、それが、教養を形作ってたんだと思う。だから、それはおかしいっていうことは映像になりえなかった。「幕末太陽傳」と見くらべてみれば、それはよく分かると思う。
 どんなに博識衒学の監督であったとしても、小道具、衣装、セット、所作、セリフの隅々までひとりで支配するのは不可能だろうと思う。「幕末太陽傳」のあの品川遊郭のセットのみごとさ、演者の着物のきこなしを思い出しても、今は、そういう常識のラインが下がりすぎてて、時代劇のハードルは高くなりすぎていると感じた。
 わたしたちは豊臣秀吉織田信長について親しみすぎているのだし、このフォーカスをどうずらすかで成功したのが「へうげもの」だろうけれど、「清須会議」は、役所広司柴田勝家にフォーカスしているのが面白い。結局のところ、これは、柴田勝家お市の方の、老いらくのラブコメディーであるわけだった。
 天下人となるのは誰か、織田家の跡目は誰が継ぐか、ですったもんだしているうちに、どういうわけか柴田勝家お市の方がくっついちゃったっていうのが、コメディーの核なわけだった。
 そういうラブコメに徹せられればもっと成功しただろうと思う。観客の側でも、秀吉の存在感に引っ張られてしまうっていうこともあるけど、三谷幸喜という人は、全員に気配りしちゃう感じはある。滝川一益なんか‘どうでもいいわ’っていう切り捨て方はしない人。