「夢と狂気の王国」、「悪の法則」

knockeye2013-11-16

 「エンディングノート」で、「えっ」という感じの鮮烈なデビューを飾った砂田麻美監督は、西川美和とおなじく、是枝裕和のもとで働いていた人なんだけれど、是枝裕和糸井重里の対談では、‘砂田監督本人はフィクションをやりたがってる’みたいな話をしていたし、糸井重里も‘フィクションが見てみたい’と返すのを読んで、一観客としては、‘どう考えてもドキュメンタリーの人だし、そっちいった方がよくないかな’と首をかしげたりしていた。
 そのあと、「アスキー・ドットPC」に相田洋(「電子立国日本の自叙伝」のディレクターだった)が書いているコラムを読んで、砂田麻美が彼の大学のゼミを受講していたということも知って、ドキュメンタリーに関しては‘けっこう筋金入りじゃん’と。
 それで、週刊文春川上量生のコラムで、砂田麻美監督がジブリを取材したドキュメンタリーを撮っていると読んだときは‘やっぱな’という感じもあるし、‘そうきたか’という驚きもあった。どっちにしても公開されたら観にいくに決めていた。
 「夢と狂気の王国」。
 「風立ちぬ」の制作が追い込みに入っている頃から、宮崎駿が引退を表明する頃までのスタジオ・ジブリに、砂田麻美がカメラをもって入り込んでいる。
 あいかわらず、カメラを意識させないとけこみ方は、特技なんでしょうね。
 宮崎駿が絵コンテを作っている姿は、横で見ていて(実際は映画館で見ているのだけれど)、やっぱりすごいと思ってしまう。何かを描く、そしてしばらく目を閉じてストップウォッチを押す、そのあいだ、頭の中で映画が動いているんだっていうのが分かる、横で見ていても。
 主人公、堀越二郎の声優が庵野秀明に決まる会議の過程もスリリングで、今から思い出すと、あのとき、ネット上でああだこうだと議論があったわけだが、そんなのは、当然っちゃ当然なんだが、作り手側で吟味されつくしていたわけだった。
 そんなことより、庵野秀明のその受け入れ方が、なかなかかっこよく、けっこう深いところまで理解した上で受けてるんだなということが、よくわかるんだけど、それはでも、そういうシーンを砂田麻美がおさえているっていうことで、なぜそこにカメラを持ったあなたがいるの?って、ほんとに不思議なくらいだ。
 宮崎駿が泣いた試写会のあとなんか、庵野秀明鈴木敏夫のローバーに乗って帰る、そこに、砂田麻美が同乗してカメラを回している。それは映画にとっては決定的に重要なことに見える、すくなくとも観客には。あのシーンがなければ映画として成立していないとさえ思う。
 だが、それは編集を経て映画のかたちになったものを見るからそう思うというのがほんとうで、もしかしたら、あのシーンも、また、それとは別のシーンも、まったく別のカット、別のセリフ、別の表情に入れ替わっていたかもしれない。
 ドキュメンタリーを語るときに、こういうことを考えていること自体、ひどく矛盾していると思わないでもない。というのは、ドキュメンタリーは、写したものをつなぐしかないはずだから。
 しかし、どうだろうか?。ドキュメンタリーでも、作家はウソをつくことができる。自分のメッセージに事実のよろいをかぶせているだけのドキュメンタリーもありえるのではないか。
 砂田麻美の映画は「エンディングノート」のときからそうだが、人間に興味津々で、ちんけなメッセージを込めるつもりなど毛頭ないように見える。砂田麻美のカメラは、いつも、人間の不思議さに驚いている。
 引退会見の朝、宮崎駿砂田麻美をスタジオの窓に呼び寄せ、そこから見える景色を説明する。砂田麻美のカメラはその意味を完全に理解する。そうした人間に対する共感がこの映画には満ちているし、結局のところ、メッセージと呼ぶに値するのは、実はそれであって、他のものはプロパガンダというべきものにすぎないだろう。
 この映画を見終わった後、「風立ちぬ」をもう一度見たくなった。
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 この週末はもう一本映画を観た。
 リドリー・スコット監督「悪の法則」。
 「夢と狂気の王国」が美しい映画だとしたら、これはひどく醜い映画だが、別にけなしているわけではなく、いいかえれば、こうかもしれない。「夢と狂気の王国」が浮揚していく狂気だとすると、「悪の法則」は、退嬰していく狂気だと。
 映画の予告編で使われていた、ワイヤーを使った殺人シーン、道路にワイヤーを張って、バイクが通りかかったときに強いライトを点ける。ライダーは一瞬目線をあげる、というシーンだが、本編で見ると、全く必然性がないことがわかる。仮に、正確にバイクが通りかかる時刻がわかっているとしても、たまたま別のトラックでも通りかかったらすべて台無しだから、路面に油でもまいておく方がずっと確実だろって話。
 「連中にとって人の命なんて何の意味もない。ただの悪ふざけさ」
みたいなセリフがあるけれど、あのシーンにもしプロットの上での意味を求めるとしたら、まさにそういうことにしかならないが、そもそも、客席に向かって、機関車が走ってくるとか、ヒゲづらの男が拳銃をぶっ放すとか、そんなこけおどしから始まった映画にとっては、プロットの意味がすべてではない。
 面白いのは、映画の冒頭、「この映画のスペイン語のセリフの多くは、制作者の意向により字幕がつきません」みたいな断りが入る。
 マイケル・ファスベンダーが演じる主人公がどん底の後半は、スペイン語のシーンが増えるけれど、意味が分からないかといえば、だいたい分かる。日本人にとっては、本を読んでて、読めない漢字があってもすっとばして先に進んじゃうあの感じ。
 言葉が分からないのが、異国の孤独感を表していて、それはよい演出だと思った。そもそも、主人公も、おそらく観客も(すくなくともわたしはそうだ)、何が起こったのか正確にはわからない。ただ、痛切にわかるのは、主人公がちょっとした欲(greedとハビエル・バルデムは言っていた)に負けて手を染めた悪が、取り返しのつかない不幸をもたらしたということであり、そのからくりを解き明かす、登場人物を一室に集めるシーンに、リドリー・スコットの興味はないということは、スペイン語に字幕もつけないその態度に明らかだ。
 首を切り落とす殺人が2度あるし、言及されるのもふくめると3度になる。殺人や死体は数知れないし、どれもが‘悪ふざけ’めいた残酷さに弄ばれている。
 これは、無神論者の書いたヨブ記とか、古代ギリシャ詩人の書いた往生要集といった、どこかちぐはぐでありながら、イメージだけが鮮烈な宗教的な嘆きの書を思わせる。
 この映画の核となっているのは、キャメロン・ディアスがポルシェとファックするシーンだろう。醜悪だ。それをフロントガラス越しに眺めていた(眺めさせられた?)ハビエル・バルデムは「ナマズ(catfish)みたいだった」というのだ。
 ポルシェとファックすることは、死体の腕から時計を盗み取ることと価値観を共有している。その価値観に貫かれている生態系が、主人公にとって異国なのか、それとも、それは彼自身なのかということ。
 実は、主人公はいままでその生態系の中間層にいて、上も下も意識したことがなかったが、ふとしたことで上に行こうとして下に突き落とされたにすぎないのではないか。
 そういうわけで、この映画はひどく醜いのだが、その醜さはこの世界の欠陥であって、映画の欠陥ではないだろう、たぶん。