下村観山

knockeye2013-12-08

 昨日のサイデンステッカーの付け足しになるけれど、明治時代に源氏物語を英訳した(抄訳だけれど)末松謙澄という人がいたそうで、話がそこに及んだついでに、明治時代の日本人の方が、今の日本人より英語がうまかった、たとえば、夏目漱石とか内村鑑三とか、そういう話になっていた。
 日曜日は朝から冬ざれて寒々しいので、どこにもでかけなかったのだけれど、土曜日は、横浜美術館で始まった下村観山の展覧会を観にでかけた。
 じつは、この展覧会は、横山大観の展覧会に引き続いたもので、主催者側としてはセットの企画だったかもしれないけれど、わたしはどうも横山大観の絵を生理的に受け付けなくて、今回もスルーしてしまった。
 毛嫌いしているからこそ観にいくべきだったかもしれない。「無我」というあの絵が、私は決定的に嫌いで、あの絵を観ると、明治という時代が、どれほど痛々しく、それまでの日本の伝統と切れてしまったかを感じて、やりきれない。
 たとえば、広重は純然たる風景画家にすぎないが、生涯に数え切れないほど描いた江戸の風景画に、「王子装束ゑの木大晦日の狐火」みたいな絵がまぎれ込む。それは、江戸の人たちがそういうことをどれほど本気で信じていたかとは別に、そういうことが、 「浅草田甫酉の町詣」の吉原から眺める夕景と同じように、生活実感と地続きにあったことを示している。これに対して、子供が突っ立ってるあの「無我」は、子供が突っ立ってる、だから?何?っつったら、「無我」だっていう。そこに、どんな裏付けも背景もない。だけでなく、さらに悪いことは、そこに「はったり」を感じてしまう。
 あの絵を観ていると、当時の日本画日本画という言葉自体が明治のものだが)の発想のレベルが、西洋へのみやげ物のレベルだったと思われてきてしまう。
 私としては、横山大観より、師匠の狩野芳崖をもっと評価すべきなんじゃないかという気がする。ちなみに、狩野芳崖のファンとしてひとこと申し添えておくと、絶筆となった、有名な悲母観音の絵などは、芳崖としては出来のいい方ではないと思っている。そういうことを言う資格が私にないとしても、すくなくとも、私が好きなのは、脂ののりきった頃に描いた龍とか、満月に梅の枝を描いた水墨とか。
 下村観山も狩野芳崖の弟子であったが、弟子入りしたその頃、芳崖は繁忙を極めていたため、同門の橋本雅邦の許にあずけられたそうだった。十代の、もっといえばローティーンのころから将来を嘱望された早熟の天才だった。
 横浜に下村観山の絵が多いのは、この地の実業家、原三渓の手厚い支援を受けていたからだった。下村観山の絵を、私は若い頃にはつかみかねていたけれど、こうして画業全体を見通してみると、その才能がよくわかる。「下村観山といえばこの絵」というようなマスターピースが思い浮かばないので損をしているが、言い換えれば多彩で、二年間ロンドンに留学したおりには、ラファエロ前派ジョン・エヴァレット・ミレイの油彩「ナイトエラント」を水彩で模写している。この元の絵を観たことがあるけれど、下村観山の画力の高さがわかる。この絵を選んだのはおそらく、裸婦の肌、ナイトの鎧、夜の森、と油彩の表現を水彩でどの程度再現できるかを試すのに適していたからではないかと思う。
 木の幹に縛り付けられた裸婦と、鎧に身を包んだ騎士。誤解されかねない画題を平気で選んでいるところに、何か下村観山の、ものにとらわれない人となりを思わせる。また、同じ滞欧期に水墨で夜景を描いた「夜色」が、今回新に発見されて展示されていた。これはがらりと違う印象を受ける。ありとあらゆる技法を取り入れることにどん欲な人だったのではないかと思う。
 新発見ではないが、今まで別々に収蔵されていた二曲一双の屏風「元禄美人図」が今回はそろって展示されている。これは、日本女性の顔をどう描くかについての観山のひとつの回答だと思うし、すごいと思った。
 それでも絵画としてもっともこころに沁むのは「白狐」であるかもしれない。シンプルな構図が、森に帰る狐が下界を振り向いた一瞬を永遠にとどめている。
 私は、横山大観に、明治の悪いところを見て、下村観山には、明治のよいところを見ているのかもしれない。下村観山には、新しい世界に目を向けた、素直な明るさがあるように思う。
 ちなみにこの展覧会、前期後期に分かれているだけでなく、けっこう細かく展示替えがあるようなので、お出かけの前に、美術館のサイトで確認した方がよい。