「愛しのフリーダ」「ウォール・フラワー」

knockeye2013-12-14

 今年、降って湧いたかのようなボール・マッカートニーの来日公演だったが、聞きに行った人たちの発言を目にするたびに、いい公演だったんだなという思いを強くする。坪内祐三鴻上尚史文藝春秋の今月号には、奥田英朗という人のレポートも載っていた(ついでに村上春樹の「イエスタデイ」という短編も載っている)。
 ひとつには働き盛りのもの書きの世代に、ポール・マッカートニーが、なんといっても、特別な存在だからということもあるだろう。彼らとしても直接ビートルズを体験した世代ではないにしても。
 チャボこと仲井戸麗市は、66年の武道館のコンサートに行った。「おとなたちは、歓声がうるさくて音楽なんて聞こえなかったといったけれど、自分にはちゃんと聞こえた」と回想していたのをどこかで読んだ。「歓声で演奏が聞こえなかった」は、今では定説となっているけれど、あれは、マスコミの‘ネタ’だったわけだ。そう書いておけば当時の読者には受けたのだろう。それを信じたいものはそれを信じたろうけれど、その場にいた人たちはその音楽を聞いた。
 角川シネマ有楽町で「愛しのフリーダ」(原題「GOOD OL’ FREDA」)という映画を観た。
 ブライアン・エプスタインの秘書で、ビートルズファンクラブの責任者だった女性のドキュメンタリー。当時、まだ17歳だった。もっとも、ビートルズ自身もまだ20そこそこだったはずだ。ドイツから国外退去させられたのは、ジョージ・ハリソンが就労年齢に達していなかったのが理由のはずだから。
 キャバーンクラブの‘匂い’の記憶。地下だし、向かいの店が捨てる生ゴミのにおいですごく臭かったのだそうだ。昼休みをすごして大急ぎで職場に戻るのだけれど、たぶん匂いでばれていただろうと言っていた。
 ファンの子がリクエストを紙に書いて渡すと、ジョンが受け取り、ポールが肩越しにのぞき込む。ジョンは眼鏡なしでは読めないからだ。
 フリーダがファンクラブを作った頃の夢は、地元のホールをいっぱいにすることだったそうだ。
 その夢がかなうかどうかは映画を観てからのお楽しみだが、リバプールでのビートルズがこんなに魅力的だったということには、なぜか胸を熱くさせられた。リバプールでのビートルズが輝いていなければ、その後のビートルズも輝いているはずがなかった。
 リンゴ・スターが母親と住んでいた家なんかがでてくる。メンバーの家族ともフリーダは親しく付き合っていた。
 フリーダは今でも週に六日、どこかの事務所でキーポードをたたいて生計を立てている。まわりの人がこの映画を観たら驚くだろうと娘さんが語っていた。ビートルズが解散したときに、ビートルズやアップルにまつわるもののほとんどは、ほしいという人にただであげた。それでも、屋根裏部屋には当時を偲ばせるものがダンボールにいくつか残っている。 
 屋根裏部屋に上がって、「ここに上がるのは久しぶりだ」と語っていた。ほんとだろうか?。ほんとだろうという気がする。ファンクラブの最後の会報を手に取る。偶然だろうか?。偶然だろうという気がする。
「とうとうこの日が来てしまいました・・・。」
 潔い生き方だと思う。世の中の片隅で、輝きを秘めて生きている人がいるんだなと思うだけで、あたたかい気持ちになれる。
 余談だけれど、高橋幸宏が、ひとりドラマーをあげるとすれば、結局、リンゴ・スターだ、といってたな、たしか。
・・・・・
 この日、有楽町にまででかけたのはもうひとつ目的があって、日比谷シャンテで、ジュゼッペ・トルナトーレの新作「鑑定士と顔のない依頼人」を見るつもりだった。というのは、14日はTOHOシネマズデーで映画が千円だから。TOHOシネマだから昨夜のうちにvitで予約するつもりだったが、あれ?っと思ったのは、なぜか発売停止になっていた。悪い予感はしたけど、角川シネマの予定もあるので、とりあえず足を運んでみたわけだが、案の定、レイトショー以外、全席売り切れ。TOHOシネマズデーだからかと思いきや、翌日も売り切れ。何だったんだろう?。結局、後にららぽーと横浜で観ることになったが、その話はまた後で。
 実は、同時上映されている「ウォール・フラワー」にもおんなじくらい食指が動いていたのだ。これもまた「17歳」の物語。でも、これは60年代の17歳ではなく、80年代の17歳、音楽はカセットテープのデビッド・ボウイ
 「ジンジャーの朝」、「桐島部活やめるってよ」、「愛しのフリーダ」、そしてこの映画と思いくらべながら、どうして今の日本の若者はこんなに痛々しいのだろうと考えていた。どうして彼らは青春を失ってしまったのだろうか。
 彼らは、痛みを懼れて勇気を失っていると、私の年になれば、そういうのは簡単だが。