「ハンナ・アーレント」

knockeye2014-01-11

 千葉市美術館に川瀬巴水展を観に出かけ、千葉劇場という映画館で「ハンナ・アーレント」を観た。
 「ハンナ・アーレント」は、去年の10月に岩波ホールで単館上映が始まった。週刊SPA!で坪内祐三が言っていることによると、‘すごい行列で一時間前にいかないと入れなかった’のだそうだ。その後、年越しをまたいだ今でもどんどん上映館が広がっている。シネ・リーブル神戸でも上映しているので、帰省中にも観に行きかけたのだけれど、スケジュールがうまく合わなかった。今日も、川瀬巴水のあと、ジャック&ベティにとって返さないといけないのかなと思っていたが、美術館から歩いて5分の映画館でうまい具合にやっていた。
 ハンナ・アーレントは、ハイデガーヤスパースなどの許で学んだ人で、また、自身はユダヤ人であり、欧州にナチズムが吹き荒れた時代には、抑留キャンプに収容された経験を持っている。
 この映画は、ホロコーストの責任者だったアドルフ・アイヒマンの裁判についてのレポートを、ニューヨーカー誌に連載したハンナ・アーレントが、巻き起こし、また、巻き込まれた論争に焦点を絞って描かれている。
 1963年、三年の時間を費やし『イェルサレムアイヒマン − 悪の陳腐さについての報告』と題して単行本化されたその記事が指摘している「悪の凡庸さ」を、21世紀の今だからこそ、私たちが実感できるのは、ナチスの被害者であったはずのイスラエルが、パレスチナで人権を蹂躙し、日本軍の被害者であったはずの中国が、チベットを不当に支配している顛末を、私たちがすでに見ているからだった。
 ハンナの反論を聞き終わった後、「我々は大虐殺の共犯者なのか?」と詰問するユダヤ人の旧友ハンスの言葉は、1960年代のその時点では、鋭い攻撃の言葉だが、今もしその言葉が発せられたとしたら、それはまた別のニュアンスを含まざるえないだろうと思う。というのは、たとえば、この映画をまだ見ていない人が、この台詞を単独で目にしたとき、どのような語調をそこに想像するだろうかというようなこと。パレスチナ問題を経た今では、少なくともその台詞は、有効な打撃にならないと感じられはしないだろうか。
 パレスチナチベットを目撃した私たちは、ハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」の、正しさではなく深刻さを、考えてみるべきだろう。凡庸であることに、人は逃げ込める。もし、善でなくても、もしくは悪であったとしても、他人と同じであれば人は安心する。こうした、いわば‘人間的な思考の放棄’を、ハンナ・アーレントは「悪の凡庸さ」と呼んだ。
 何日か前に書いたことに関連づければ、私はこうしたハンナ・アーレントの態度をリベラルと言いたい。
 被害者であることを、ひとつの権限として行使することも可能だし、自分が加害者ではない悪を弾劾することはいとも簡単だ。しかし、そこに思考がなければ、被害者としての権限の行使も、自分に責任のない悪の弾劾や、あるいは、高見の見物も、そのままあらたな暴力になるだけだ。
 わたしたちはここ数年、このような事例を何度もくりかえし経験してきた。だから、わたしたちは1960年代よりもハンナ・アーレントの考えを理解する材料に恵まれている。ニューヨーカー誌に連載され始めた頃、その記事は、「アイヒマンの擁護」とたたかれたわけだったが、いまでもそれと同じ反応をするとしたら、それはやっぱり思考停止なんだろう。
 マルガレーテ・フォン・トロッタ監督と脚本家のパメラ・カッツは、脚本執筆開始から10年をかけてこの映画を完成させた。優れた作品はすべてそうだが、できあがったものを観ると、誰が撮ってもこう撮るしかなかっただろうと見えるものだが、思想家が主人公の映画がこれほどスリリングで魅力的になりえたことについては、このチームの仕事の充実ぶりに感嘆せざるえない。
 また、パンフレットも充実している。随筆や解説に加えて、巻末にシナリオが採録されているので、台詞やプロットのディテールについて確認できる。