たかが電気

knockeye2014-01-28

 以前、坂本龍一が「たかが電気」と発言して、批判されたことがあった。批判者のよってたつところは即ち「電気は大切」ってことにつきる。
 で、今、都知事選で戦われている最大の争点は、つまり、「たかが電気」vs.「電気は大切」の対立なのである。
 さて、このふたつの命題はどちらが正しいのでしょう?。
 こう聞かれてどちらを選ぶかで、いろいろなことがわかる気がする。
 私の答えとしてはいうまでもない、「たかが電気」じゃん。
 なぜなら、「電気は大切」じゃないから。大切なのは、電気で作られる「価値」なのであって、「電気そのもの」ではない。電気は「価値」を作り出す手段にすぎず、手段は目的に従属しなければならない。
 原発がレベル7の大事故を起こして、多くの人の生活の基盤を毀損したかぎり、原発という発電の手段は放棄されなければならない。たかが電気を私たちの生活の価値に優先させることはできない。当然だ。
 ところが、世間には「電気は大切」と思う人も多いらしい。手段が目的化した状況は「倒錯」というべきだろう。
 これを書きながら、考えているのは、どことかの格付け会社ソニーの株をジャンクとかジャンクの一歩手前にまで引き下げたというニュース。
 世界有数の優良企業だったものが、あれよあれよというまに、ここまで失墜する、その本質は何かといえば、「ものづくり」信仰という倒錯にあると思う。「もの」をいくら作っても、それに「価値」がなければ誰も買わない。
 たとえ話をすれば、ショップアラウンドの最中に信じられない安い値段でiPodが売ってたとする。だけど箱をよく見たら「made by Appul」と書いてあったら、いくら安くても私は買わない。
 人は「もの」を買うのではなく、「価値」を買う。この20年の間、ソニーは、‘ソニー’というブランドの価値を毀損し続けてきたといえるだろう。それは見方を変えれば、自分たちの技術で作れる「もの」は提供してきたが、新しい「価値」は提供してこなかったと言い換えられるのではないか。
 大切なのは「もの」ではなく「価値」なのだ。
 最初の話に戻ると、「電気は大切」という意見は、正論のように聞こえる。「たかが電気」は暴論のように聞こえる。しかし、それは「もの」の視点に立っているからで、「価値」を重んじる視点からこの対立を眺めてみれば、その正邪は逆転する。
 もう一点、小泉純一郎は「原発即時停止」を訴えている。これに対して安倍晋三は「すぐに止めるとはいえない」と言っている。
 これはどちらが正しいでしょう?。
 雑誌の中吊り広告とかに、小泉純一郎を「選挙巧者」のように書いているのがあったが、私はそうは思わない。小泉純一郎が強いのは、役人とのケンカだ。
 私は「原発即時停止」が正しいと思う。
 なぜなら、「即時」といっても、どうせ30年くらいかかる。「すぐに止めるとはいえない」と言っていたら、永遠に止まらない。それが、この国の役人じゃないか。
 つまり、こういうことがいえる。安倍首相は、本来、原則的でなければならないところで現実的になり、現実的にならなければならないところで原則を盾にとる。
 これは靖国参拝についても同じことがいえる。原則的に行動するなら八月十五日に参拝すればいいのだし、現実的に行動するなら参拝しなければいい。どっちつかずの態度をとるから推進力を失う。
 週刊文春池上彰が書いていたが、読売新聞の都知事選に関する記事がすごいことになっているそうだ。
 まず、見出しの扱いがアンフェアで、細川護煕については
「『脱原発』しか語らず」
なのに、舛添要一には
「会見1時間 余裕の桝添氏」
そし本文は
「元厚生労働相舛添要一氏(65)は1時間かけて公約を説明したのに対し、『脱原発』を唱える元首相の細川護煕氏(76)の記者会見はわずから5分で終了」

この比較は、おかしいのですね。桝添氏は正式な記者会見なのに対し、細川氏の記者会見はまだなのですから。桝添氏も出馬の意思を固めたというインタビューの際は1時間もかけていません。比較できないものを比較して、細川批判を紙面で展開する。細川氏は、選挙戦で自分に敵意をむき出しにする新聞とも戦わなければなりません。

と書いている。
 読売新聞に関しては、特定秘密保護法の「情報保全諮問会議」の座長に、渡辺恒雄がついている。
 こういうことをやっていては、自分たちのジャーナリストとしてのブランド価値を傷つけると、読売新聞は気がつかないのか不思議に思うが、つまり、そういうことなんだろう。ブランド価値の重要性が理解できないからこそ、原発推進派でいられるのだろう。