木島櫻谷、ラファエロ前派

knockeye2014-02-09

 先週の日曜日に行った美術展について書いていないので、一週遅れだけどここに書く。この日は晴れたけれど、雪後を慮って出かけなかった。
 木島櫻谷(このしまおうこく)を六本木一丁目の泉屋博古館分館で。これは、このお正月に帰省したときに、両親が教えてくれた。両親は、京都の泉屋博古館本館で観たのだそうだが、六本木の分館の方でやっているのに気がついて観にいった。
 あいにく、「寒月」という、夏目漱石にさんざんにけなされた絵は、展示替えで観られなかったが、京都の日本画の流れをくむ、しっかりした絵だと思った。とくに、屏風の大画面を鑑賞に堪えるものにする、しっかりとした筆力をもっている。
 漱石はこの絵を「気持ち悪い」と評したわけだが、今の私たちの多くは、おそらく、きれいすぎると感じることはあっても、気持ち悪くは感じないだろう。でも、それはもしかしたら、おなじ感覚なのかも。いずれにせよ、いまのわたしたちは、この絵を「気持ち悪い」と感じた漱石の感覚の方に、強い興味をそそられるのではないか。
 漱石は、だって、イギリス留学時代に西洋の絵画を経験しているし、作品の中で、ターナーや、ジョン・エバレット・ミレイの「オフィーリア」に言及したりしているんだが、それでも、今の私たちと、視覚体験になにか差があるとすれば、すごく面白いと思う。
 以前に紹介したけれど、高橋由一が「花魁」という絵のモデルにした小稲という女性は、「あちきはこんな顔じゃない」と、泣いて抗議した。でも、似てなきゃ泣かないわけで、彼女にとってはそれが、デフォルメ、しかも、悪意のあるデフォルメに見えたわけだろう。
 それと同じような事態が、漱石の目に起きている。あるいは、今の私たちの目に起きている。
 一方で、木島櫻谷の「寒月」は展覧会で最高賞を獲得した。これもまた考えさせられるのだが、漱石
「して見ると、自分は画が解るようでもある。また解らないようでもある。それを逆にいうと、審査員は画が解らない様でもある。又解るようでもある。」
と、その展覧会の記事をむすんでいるそうだ。
 これは、たぶん、皮肉ではなく、漱石の正直な疑問だろう。漱石という人は、西欧と日本の間にある、気の遠くなるような差異を正確に感じている人だったと思っているので。
 木島櫻谷は「狸の櫻谷」と呼ばれるほどだったらしいが、私は鹿の絵もいいと思った。動植物の絵、つまり、花鳥画はよいが、人物画には、なにかざらっとしたものを感じた。漱石がけなしたと小耳に挟んだときは、こちらを言っているのかと思ったほどだ。「無辜の大衆」「清く、貧しく、美しき民草」「天皇の赤子」といった、要するに、支配層にとって都合のいいイメージ、をそこに感じる。
 横山大観「無我」もそうだが、そんな‘イノセント自慢’みたいな心的態度は、江戸以前にはちょっと考えられないと思う。
 おなじ六本木の、六本木ヒルズで、ラファエロ前派アンディ・ウォーホルの展覧会が開催されているので訪ねた。
 ラファエロ前派の方には、ジョン・エバレット・ミレイの「オフィーリア」も来ている。これが、初来日(だったと思う)したときには、「一生に一度あるかないか」という思いで観にいったものだが、それからもう三四回は観ている。
 宮崎駿がテートギャラリーを訪ねたさい、「自分が目指しているものを100年前にやっている人がいた」と評したのがこの絵。
 しかし、私が今回発見したのは、ロセッティの絵の良さだった。
 ラファエロ前派は昔から好きだったけれど、好みを言うと、バーン・ジョーンズとジョン・エバレット・ミレイで、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティについては、「なんちゅう下手な」と思っていた。
 しかし、こないだ横尾忠則がツイートしていた「自分にとっては下手になることとうまくなることは同じ意味だ」ということばが心に残っているせいか、うまいへたにこだわらずに観ていると、何度も観たことがあるロセッティの

「プロセルピナ」がいい絵だなとわかってきた。
 なるほど、ミレイやハントではなく、この人がラファエロ前派の中心にいたのは、こういうことかとそういう説得力を感じた。

 ちょっといい加減遅くなったので、ウォーホルについては又後日。