ルドルフ・シュタイナー展

knockeye2014-03-23

 ワタリウム美術館で「ルドルフ・シュタイナー展」を。
 ブラジルのファベーラでシュタイナー教育に携わった、小貫大輔という人の本を読んだことがある。偶然だけれど、つい先日、吉本隆明の本で、『窓際のトットちゃん』をひさしぶりに思い出しながら、そうした「まったきリベラリズム」教育の別の一例として、頭に浮かんでいたのはシュタイナー教育だった。
 ルドルフ・シュタイナーが、講義のときに描いた黒板の絵を、弟子たちが遺したいと思い、黒板に黒い紙を貼ってそれを保存するようになったのだそうで、美術館のサイトによると「1919年から亡くなる1925年までの6年の間におよそ1000点の黒板ドローイング」が遺されている。今回はそのなかから晩年のもの24点が展示されている。
 この黒板絵が、まず、絵としてよい。
 図録によると、ワタリウム美術館の館長、和多利恵津子さんが、今から20年前、まず魅了されたのも、ヴェネチアのギャラリーで出会った、この黒板絵だった。そして、

現代美術の父として絶対的に尊敬していたヨーゼフ・ボイスがたびたび引用し、ボイス自身も黒板を描くパフォーマンスや作品をつくっていたことを思い出しました。私たちにとって、シュタイナーは「いつかはひもとかなければならない現代美術の基礎、あるいは謎のひとつ」だったのです。

 ルドルフ・シュタイナーを「神秘主義者」と呼ぶについて、私には何の異論もないが、彼をそう呼ぶ誰かが、たとえば、キリスト教徒にせよ、仏教徒にせよ、他のどんな宗教の信者であっても、自分たちの信仰を神秘思想ではないと考えているとしたら、滑稽だと思う。「自分たちは正しい、だから、信じる」という論理には、信仰は存在しない。
 自分たちが正しいという盲信は、それ自体が思考の放棄だから、神秘主義者が思考し、神秘を否定するものは思考しない、となると、なにかしらパラドクスめいている。理解できない他者を、たとえば「神秘主義」と呼んで排除するだけで、何かを理解したつもりになれるのはどんな精神なんだろうか。
 図録に、高橋巌が、シュタイナーの『ドイツ民族と文化世界へのアッピール』から
「理想を持つことが非実際的なのではない。非実際的なのは、自分を実際家と考えながら、その実際的手段の仮面をつけた狭い視点によって、国家の不幸を招来するものたちの高慢と僭越である。」
という文章を紹介している。また、『言葉と思考の失われた一致』には
「多様性の中にではなく、統一性の中にこそ救済への道が見いだせると信じること、そのような統一のドグマを信じることの中には、悪が働いているのです。」
とあるそう。
 私自身、仏教徒であるけれど、断言してもよいと思っているのは、仏教も含めてすべての宗教は迷信であり、信仰の自由とは、迷信する自由のことであり、「迷信はやめて、正しい信仰に入りなさい」という権利を持つものはどこにもいない。
 「自分が正しい」というひとは、正しさについて考えることを放棄しているにすぎない。正しさが易々と口にされる今だから、シュタイナーの「神秘主義」が、第一次大戦から100年というこの時期に、ふたたび重みを持ち始めていると思う。
 もう一つ、今度の展覧会で大きな要素は、建築家、デザイナーとしてのシュタイナーで、家具やステンドグラスなどもそうだが、スイス、ドルナッハの丘に現在も建つ「第二ゲーテアヌム」を、坂口恭平が、黒板絵っぽいジオラマにしているのと、撮り下ろしのハイビジョン映像も上映されている。
 ルドルフ・シュタイナーの実践の一面を知ることができる。第二ゲーテアヌムの建物は、はじめて観るものばかりなのに、宮沢賢治のような懐かしさを感じる。
 第一次大戦から第二次大戦までの一時期、世界があるリベラリズムを共有していた可能性もあったのではないかと思うし、その裏には、危機感もまた共有されていたのかもしれない。