中村一美展

knockeye2014-03-24

 日曜日はあのあと、乃木坂の国立新美術館にまわって、中村一美展を観た。
 ところで、ちょっと話はそれるけれど、気がついたんだけど、昨日の記事の中で、「和多利恵津子さん」って「さんづけ」なのに、おなじく図録の寄稿者の「高橋巌」は呼び捨てなのな。
 これは、わたくし的には、ちゃんと説明できて、それは、女性の場合、呼び捨てだと‘なれなれしすぎる’と思っちゃうわけ。その逆に、男性の場合は、さんづけだと‘なれなれしすぎる’気がするわけ。
 でも、女性でも、知り合いでもないのに‘さん付け’はちょっとおかしいかな、とか、反省した。
 で、改めて、中村一美展の話。
 わたしには、この絵は、ズドーンと来た。特に、「存在の鳥」シリーズはすごい。
 展示は、1,空間としての絵画、2,社会意味論としての絵画、3,鳥としての絵画、に分かれてるんだけど、まず、最初は「Y字」の絵から始まるの。というか、Y字の発見から絵が始まった感じ。その次に「斜行グリッド」、つまり連続して交差する斜めの線を発見する、そして次に「開かれたC」を発見する。
 そのつぎの「社会意味論」のところは、その展開に見える。「Y」と「斜め格子」と「C」でいろんなものを描いている。
 そして、「鳥」を発見するわけ。あとはズーッと鳥。これは圧倒的。ほぼ全部いっしょの構図で、色だけ違う。こうなるともう「模様」なわけ。
 柳宗悦が、「現代は‘模様’を(もしかしたら‘紋様’かも)を生み出す力を失った」とか、どこかで言っていたように思うけど、この「存在の鳥」は、絵が模様に変わる、そのメタモルフォーゼの瞬間を見るような気がした。
 図録に画家自身が書いている「存在の鳥・雑記」に、『正法眼蔵』の「画餅」の段が引用されていて、これがかっこいい。孫引きして、さらに断章。

 もし画は実にあらずといはば、万法みな実にあらず。万法みな実にあらずは、仏法も実にあらず。仏法もし実なるには、画餅すなはち実なるべし。

 ただまさに尽界尽法は画図なるがゆへに、人法は画より現じ、仏祖は画より成ずるなり。
 しかあればすなはち、画餅にあらざれば充飢の薬なし、画飢にあらざれば人に相逢せず。画充にあらざれば力量あらざるなり。おほよそ、飢に充し、不飢に充し、飢を充せず、不飢を充せざること、画飢にあらざれば不得なり、不道なるなり。しばらく這箇は画餅なることを参学すべし。この宗旨を参学するとき、いささか転物々転の功徳を、身心に究尽するなり。

(現代語訳)

 まさしく全世界・全存在は、ことごとく描かれた絵であるから、人も事象も、すべて絵より現れ、仏祖も絵より成就するのである。そういうわけであるから、「描かれた餅」でなければ、飢えを充たす薬はない。また「描かれた飢え」でなければ、人に出会うことはなく、また、「描かれた充」でなければ、力量は出てこないのである。
 およそ、「飢えを充たし」「飢えないのを充たし」「飢えを充たさず」「飢えないのを充たさない」などは、すべて「描かれた飢え」でなければできないことであり、またいえないことである。ともかく、「自己そのものが描かれた絵」であることを参学すべきである。この大切な主旨を参学するとき、「物を転じ、物が転ずる」という働きを、身心に究めつくしていくことができる。