日曜日のシアター・イメージフォーラム

knockeye2014-04-13

 今日は体調がよくなかった(このあと風邪を引いた。この時期、風邪のひきはじめと花粉症がまぎらわしくて、対応が後手に回る)。きのうは、平塚市美術館のあと、鎌倉に、藤沢から江ノ電を長谷でおりて光即寺の花海棠を観にいったのだけれど、先週の海蔵寺の感じからすると、今週もまだ大丈夫かなってかんじだったのに、一週間は保たなかったらしく、とうに盛りが過ぎていた。

 今日の予定では、シアター・イメージフォーラムで、ジャック・タチの「プレイタイム(新世紀修復版)」を11:00から観て、そのまま「アクト・オブ・キリング」を13;45から観る強行スケジュールを立てていたのだけれど、一日二本の映画はつらいっつう、気の重さもあったのか(結局、風邪だったんだな)、ちょっとうだうだして、とりあえず、「アクト・オブ・キリング」だけでも観ようかと出かけたわけだった。
 ところが、あなた、びっくり。

 これですから。
 開映の45分前でこれですから。シアター・イメージフォーラムにこんなに人がいたのをはじめて見ました。すでに立ち見の整理券を配り始めていて、次の16:00くらいの回なら観られたんだけれど、ちょっと体調悪いし(風邪引いてたな)、明日もお仕事だし、で、今回はご縁がなかったと云うことで。これは、ジャック&ベティにも回ってくるそうなので、そのときにでも。
 ただ、ジャック・タチの「プレイタイム(新世紀修復版)」の方は見逃したくない。
 というのは、気がつかないうちに、時代が変わっている、そのヒントなりとも得られないものかと、こないだからしつこいようだけど、松本人志の「R100」、あれは、いろんな人が絶賛しているし(みうらじゅんも絶賛してるんだって)、私も実際、面白かったんだけど、ただ、面白がりながらも、これが受けないのもうすうすわかる気がして、その部分を確かめたいという思いがあれからずっとある。
 良し悪しはともかく、今はもっとゆるいもの、自己完結しないもの、波及するもの、イベント性のあるもの、でないと歓迎されないんじゃないかという気がする。
 たぶん、インターネットが観客のありかたを変えてしまったのだろう。
 鴻上尚史が、ニコニコ動画に流れるマーキーみたいなコメントだけど、ああいうこと舞台の観客にされたら、それだけですべてがぶちこわしになると書いていたけれど、演じる側と観る側をはっきり分け隔てるマナーがあることで、あるテーマについて、表現者が発信したものを観客が受信する、というコミュニケーションは成立していたはずだ。
 これは、すべての芸術表現についていえるはずで、展示している絵の前で立ち話しているおばさんたちとか、上映中に携帯で話し始めるおじさんとかが、マナーが悪いというのは、そのコミュニケーションを阻害するからだった。
 つまり、芸術は教養として受け入れられてきたし、芸術を鑑賞する態度は教養主義的な態度だったと言えると思う。それは、ダウンタウンの漫才やコントだってそうだったはずだ。
 松本人志の「R100」は、松本人志の映画としては、多少の迷いはあったにせよ、けっこうな高さに到達していたと思うのだが、にもかかわらず、あれが受けないだけでなく、バッシングの対象にされてしまうのは、映画だけでなく、絵画や、音楽や、笑いにしても、教養としての芸術の価値が揺らいでいることなのかもしれない。
 言い換えれば、芸術を教養として受け入れる価値観がゆらいでいる。あるいは、観客がその価値観を見失っている。
 教養としての芸術が後退して、遊戯としての芸術、ゲームとしての芸術が受け入れられていく、そういう転換点なのかもしれない。それはつまり、反知性という意味である必要はなく、コミュニケーションの形式として、遊戯性や、ゲーム性がなければ、表現を受容できないといった感性を、時代感覚が条件化してしまっているのかもしれない。
 そして、その感覚はインターネットがもたらしたものなんだろうなと思う。インターネットの衝撃はこれからますます広く波及していくんだろう。