『未完の憲法』

knockeye2014-04-19

未完の憲法

未完の憲法

 先週末、渋谷往復のどこかで風邪をもらったことは間違いないみたい。思い出してみれば、去年の今頃も風邪をひいていた。
 しかも、この週末はまるで冬のような寒さで、さすがに自重する気になった。こういうときは読書。
 改憲論議について、たぶん、ネットでもかまびすしいのだろうけれど、原発をめぐる議論で、うすうすわかってしまったことは、ツイッターで交わされるような議論は、ほとんど議論の名に値しない。
 というのは、大概はただの罵詈雑言だし、いちばんあほらしいのは、フォロー、フォロワーで、お互いの承認欲求を満足させているだけのような、「ですよね」「そうそう」「感動しました」「ありがとうございます」みたいな、やりとりは、傍で見ていてさすがにしらけてしまう。
 ツイッターはやはり、つぶやきにすぎないのが正しくて、どんどん流れてゆく川の流れみたいにやり過ごして、たまに面白いのがあったらすくえばいいんだろうと思う。
 一時期、やたらにツイートしていた村上隆がこないだ「おれやっぱ仲間と話してたほうが楽しいんだ、そんだけ」といって、半分下りたみたいな発言をしていた。
 それは言い換えれば、大衆に対する幻滅だろう。仮想的な人格を備えたかのような、大衆というものがどこにいるのか、どこにもいないのか、しらないけれど、すくなくともツイッターにそれを求めても無駄だということだろう。
 『未完の憲法』は、1929年生まれの憲法学者、奥平康弘と、1980年生まれの憲法学者、木村草太の対談集。
 安倍政権については、当初の経済重視の姿勢は評価していたのだけれど、「憲法は国家権力を縛るものだという考え方は古い」みたいなことを言い出されてしまうと、もう支持できない。法理論以前に、権力の自覚がない権力者は卑しい。
 でも、このことも、大衆という幻想と無縁ではないと思う。自分を支持している声なき大衆というイメージがあるから、自分の権力を縛ろうとするものは何であれ、因習にすぎないと見えてしまうのだろう。
 知性的な抑制に対する反発という意味で、安倍首相の態度を‘ヤンキー’と呼ぶ向きがあるのも理解できる。
 この本の中でも「司法権の優位」について議論されている。アメリカでも、司法が憲法の解釈をする最終機関だと認められていて、日本でも、憲法81条で最高裁違憲審査の権限が与えられているが、その一方で、民主主義的に制定された法律について、民意と無関係な司法が判断をくだすのはおかしいという考え方もあり、その実例としては、ルーズベルトニューディール政策推し進めるために、どんどん作っていった新しい法に対して、違憲の判断が下されたこともあったそうだが、ルーズベルトは圧力を加えてその決定を覆していった。
 ごく好意的に解釈すれば、安倍晋三の今の立場は、ルーズベルトのそれに似ているといえるかもしれないが、経済の立て直しに大胆に取り組んでいる、よりは、防衛に力点が移っているように見える。
 また、アメリカの最高判事が最初に下した違憲判決は、黒人は憲法に規定された国民ではなく財産だというものだったそうで、憲法の名の下で人権が侵害されたこうした事例もあった。
 こうした矛盾について、奥平康弘は、ジョン・ロールズが『正義論』で用いた「民主主義的な立憲主義」という概念で、立憲主義を限定したいと云っている。対立的に扱われることもある立憲主義と民主主義だが、民主主義は本来、立憲主義よりも広い概念なので、同じレイヤーで対立的に扱うよりも、ふたつを統一する新しい概念が提示できればそうすべきだという意見は魅力的だった。
 民主主義を単なる多数決におとしめないためには、公共という意識が大切ではないかと考えた。自、他の意識の他に公共という意識があるかないかでいろいろなことが変わってくる。たとえば、この本にも書かれている小国主義ということでいえば、自国、他国という概念しかなければ、他国が大国であれば、自国も大国になろうとせざるえないが、公共という意識があれば、自国が小国であってもかまわない。
 国旗や国歌の強要が問題なのは、個人の信条の自由を国家が侵害して、権力に恭順を強いることに他ならないからだ。この場合も、公共という意識を国家の上位におけるかどうかが実は問題なんだと思う。
 公共心と愛国心の違いを感覚的に理解できるかどうかが重要で、愛国心は膨張した自己愛にすぎないから、どこまでいっても排他主義にすぎない。
 「人間の安全保障」という概念もこの本ではじめて知った。1993年に国連開発計画ではじめて用いられた比較的新しい概念だそうだが、安全保障を国家を超えて、人間のレベルで考える。つまり、戦争がリアルでなくなり、憲法9条の理想がリアルになる概念だ。
 憲法九条は、作った直後から、なんとか引きずり下ろそう、後退させようという努力を、日米ともに続けてきた感があるけれど、今になって、その理想の実現が世界で注目され始めているのは皮肉な気がする。
 ちなみに、高野秀行の著書『謎の独立国家 ソマリランド』にまで言及していたのが面白かった。「こういう本を読んで平和について考えるのも憲法と向き合うことになるのではないでしょうか」とあった。