松本栄好証言の私にとっての重要性

knockeye2014-05-02

 神奈川新聞に載っていた、相模原の元牧師、松本栄好氏の慰安婦に関する証言は、そんなに話題にならなかったようなのは、正直言って、慰安婦についての議論は、このところ、手が尽きたという感じがあって、定番の詰め将棋とか、はやりすぎた怪談のオチとかと同じように、いわゆる「慰安婦問題」の全体像が、ほとんどの人に概観できるような、おそらく既視感さえ与えていて、少々の証言は、それぞれの人の抱いているその全体像のどこかに吸収されてしまうのだろうと思う。
 松本栄好氏の個人的な体験の証言は、たしかに、慰安婦をめぐる議論の全体像を揺るがすようなものではないかもしれない。しかし、それが私にとって重要だった点は、松本氏の証言が、慰安婦という制度そのものではなく、その周辺で、結局、当時の日本軍兵士によって、女性たちが陵辱されていたという点であり、そういうことが可能だったのも、彼らの背後に軍の権力があったからなのはいうまでもないと、改めて確認させてくれたことだ。
 松本氏も云っているが、当然ながら、そのようなことは、当時にあっても軍紀違反なのだった。軍自ら軍紀違反を見て見ぬふりをしている、その状況を考えれば、慰安婦という制度に国家の責任があるかないかなどという議論をしていても何の意味もない。
 当時の軍が陵辱していたのは、女性だけではなく、制度、法律、権威、ありとあらゆる価値観を踏みにじっていた。そういう連中に人権とか、尊厳とか、公正とか、そんなことを期待できないことはこれまたいうまでもない。
 で、私が言いたいのは、そんなこと、今はじめて気がついたことだったか?、ということ。
 とっくにわかってるだろ?。
 私がこの「慰安婦問題」に違和感を覚えるもっとも重要なポイントは、1945年、敗戦と同時に私たち一般の日本人が、否応なく知ることになった、「軍部」の醜悪さの、「慰安婦問題」は、その一部にすぎないし、今度の松本証言が、くしくも明確にしているのは、まさにそこであるにもかかわらず、韓国の、おそらく「挺対協」と同調する意見の本質が、「軍」の責任ではなく、「日本国」の責任なんだと、どうしてもいいたがるという点にある。
 「軍の責任は国家の責任だ」というなら、私にも、おそらく誰にも、異論はないはずだ、という意味は、河野談話の時点でも、国家の関与証拠が見つからなかったとしても、というより、国家の関与そのものがなかったとしても、当時の軍部の暴走について、国家として謝罪しても、誰も異存はなかったはずなのだった。
 河野談話が遺恨を残したのは、それが言えなかったことなのだが、一方では、韓国の側も国家の関与という点に、何の証拠もないにもかかわらず、こだわりすぎたということでもある。
 本来なら、慰安婦証言の裏付け調査を綿密にする義務は、韓国の側にこそ、あったはずだった。それを怠って、民族感情的な訴えに終始したために、今になって、慰安婦証言にウソが混じっているのが発覚したりして、慰安婦問題に対する、韓国側の態度の公正さに、疑いをもたれる結果を招いている。
 松本発言が私に再確認させてくれたのは、つまり、慰安婦問題というのは、昭和の軍部の醜悪さの一展開にすぎないということなのだった。
 であれば、それは何も新しい問題ではない。慰安婦問題だけをことさらに取り上げて問題視する韓国の態度は、だからやはり、プロパガンダと言われてしかたないものだろうと思う。
 たしかに元慰安婦の方々の中には、気の毒な方もいるに違いないが、1990年代になってはじめて訴えを起こす、その行為の中に、すでに本質的に欺瞞はある。
 橋下徹との会見をドタキャンした元慰安婦の言葉がひっかかっている。記憶違いでなければ、「なぜ二度も辱めをうけなければならないか」だったと思う。彼女ら自身が会見を求めて来日したのに、なぜその会見が実現することが「辱め」に当たるのかよくわからない。しかし、ここに真実の暴露を読んでしまう、文系人間の感覚はどうしようもない。
 松本証言について、はっきり言っておきたいことは、これが日本人の罪であることは、間違いないということだ。そのことについて、私たちが心を痛めなかったことなどない。戦後ずっと心を痛めてきた。
 だからこそ言いたい。「国家の関与」などという、あってもなくても問題の本質とは関係のないことに、日本側の官僚と、韓国側の民族主義者がこだわっている、今の状況が、人権や尊厳に寄与することはないだろうし、むしろ、それを損なっている。