「チョコレートドーナツ」

knockeye2014-05-17

 「チョコレートドーナツ」は、じわじわ話題になって、今は、ヒットしているといっていい状況みたい。
 みなとみらいの109シネマズに観にいったんだけど、最初はつらかった。というか、いつのまにか眉をしかめているのにきづいて、暗がりの中なんだけど、意識的に無表情にするように努めた。
 このブログにも書いたかどうか、個人的に、まだ幼年というべきころだけれど、同性に性的ないたずらをされたことがある(たぶん、人生で2番目くらいに古い記憶)ので、今でも、男性の同性愛者だけでなく、男性そのものが気持ち悪い。
 そういうわけで、男性同士の恋愛については、個人的には、肉体的な嫌悪を感じるのだけれど、いいかえれば、それくらいに丹念な恋愛描写だった。
 物語が展開するのは、ダウン症の少年マルコがからんできてから。そこからは平気になった。

 さっき云った経験を考えれば矛盾するようだけれど、私自身は、中学か高校くらいまで、‘ホモ’というものは、‘タイムトラベル’とか、‘パラレルワールド’なんかと同じで、小説家とか漫画家の発明だと思っていた。今でもホントは理解できない。病気みたいに‘治るものなら治した方がいいんじゃないか?’と思うのが、感情には正直な気持ちだ。
 ピーター(池畑慎之介)がデビューしたのも70年代だったと思うけれど、ルックス的にはそれそのものにもかかわらず、おおっぴらにはカミングアウトしていなかった。
 カルーセル麻紀美輪明宏もテレビに出てたけれど、公然の秘密ってヤツだったみたい。
 そういう時代、1970年代の同性愛者への偏見が過不足なく描かれていると思う。アメリカでもそんなもんだったろうと思う。マッチョを信条としている国だから、もっとひどかったかも。
 今でこそ、ハリウッドのセレブたちが、同性愛行為に厳罰を処す新法を制定したブルネイに対して、ブルネイ政府が事実上所有する、ビバリーヒルズホテルの前で抗議のデモを行ったりしているのだが、70年代はアメリカ人自身も同じようなものだった。
 思うんだけど、70年代にそういう態度をとっていたら、立派だったには違いない。でも、いまそういうことするってのは、たたきやすいところをたたいているにすぎないっていう風に見えるんだ。
 グアンタナモ収容所とか、中国のチベット弾圧とか、現在進行形のことについては、結局ほおかむりしてる。自分たちに火の粉がかからないことについて、抗議デモとか、非難決議とか、そりゃ誰でもできるんだよね。
 「結局、正義なんてないんだな」って、主人公のひとりがつぶやくんだけど、そのセリフの重さも過不足なくて見事だと思った。そういう‘誰でも知ってること’をセリフにするのはすごく難しいと思う。
 シナリオがすごくうまいかどうかはわからないけれど(いや、おそらくすごくうまいんだけれど)、シナリオについての感想としては、熟成されたシナリオだと云う感じ。
 公式サイトの、トラヴィス・ファイン監督のインタビューによると、元となったシナリオは‘20年間忘れ去られたままになっていた。’んだそうだ。‘ある日、ジョージの息子で僕の音楽監修をやっているPJブルームが「親父がこのシナリオを書いたんだが」って僕に見せてくれるまで’
 大幅にリライトしたそうだけど、そういう時間の熟成というか、時の淘汰に耐えた骨太な感じがすごくする。
 しかし、「アメリカン・ハッスル」もたしか70年代の話だし、「ダラス・バイヤーズ・クラブ」が80年代、という風に、完全に過去とまで云えない時代の実話とか、実話が元になった話をこんな具合に高い水準でフィクションにできる、アメリカ社会の健全さ、でなければ、力強さを思わざるえない。
 それに、時代考証のたしかさが、やっぱり気持ちいい。主人公のひとり、ポールが着ているシャツの衿とネクタイだけれど、70年代だわ。それから、マルコのかよう学校の、先生のエスニック風ファッション、あれも70年代だわ。

 そういうとこしっかりしてないとやっぱ映画じゃないと思う。それができなきゃ作っちゃダメなんだと思う。
 もう一つつけ足すと、いうまでもなく、キャスティングの良さだな。
 これだけ条件がそろえばマスターピースにもなるでしょってとこなんだけど、ただ、気のせいか、なんか引っかかるのは、なんだろうか、この最近のアメリカ映画の懐古的な雰囲気。「わたしたちは差別と闘った」「わたしたちは民主的だった」ていうこの感じが、未来志向ではなく、懐古的に感じられるのは、気のせいなんだろうか。
 さっきの反プルネイデモにしても、どこか現実逃避的に感じられてしまう。