「青天の霹靂」

knockeye2014-05-31

 ウディ・アレンの「ブルー・ジャスミン」に続いて、‘ブルー’つながりなのだけれど、「青天の霹靂」は、「ミッドナイト・イン・パリ」と同じく、タイムスリップものなのだった。しかも、自分の両親に会うという設定は、「異人たちとの夏」も思わせる。風間杜夫が出演しているのは、そうしたトリビュートの意味もあるのかもしれない。
 そういうわけで、ストーリーは‘ありがち’だと書いているレビューもあったけれど、私はそうは思わなかった。奇想天外なストーリーであれば面白いとはかぎらない。それよりも、この監督のストーリーテリングの手並みはホンモノだと思った。
 大泉洋が演じている、芸能界の辺縁に生息している、‘元若手’みたいな人たちの生活を、たぶん、劇団ひとり自身がよく目にしているのだろうとも思う、そのリアルさと、タイムスリップした1973年の浅草の芸人の意識のありようの違いなんかは、じっさい、それがちゃんと描かれていないと成立しないのだけれど、心憎いくらいさりげなく見事に描き分けられている。
 特訓をかさねたというマジックのシーンも見事だが、それよりも、チンとぺぺの舞台芸が人気を博する、十分な説得力がある。これは、現役のコメディアンがシナリオを書いている強みだろう。
 それでも、もっとも特筆すべき、もっともエモーショナルなシーンは、病室での柴咲コウ大泉洋の対話シーンだろう。結局、タイムスリップという、使い古された設定も、こういう使い方をすれば、‘現在性’を獲得できるというのは、過去と未来の両方の時代での‘現在’がそこで逃れるすべがないやり方で、主人公に(おそらく観客にも)突きつけられるから。
 柴咲コウは、今回、ものすごくむずかしい役だったろうと思う。芝居の濃淡しだいでは、いくらでもべたになってしまうところだが、ニュートラルなところに踏みとどまっていた。
 「ペコロスの母に会いに行く」が好きだった人なら、この映画も楽しめるんじゃないかと思う。また、この映画がよかったと思った人には「ペコロスの母に会いに行く」もおすすめしたい。
 劇団ひとりの『陰日向に咲く』はなぜか読んだのだった。そういう‘ちょっと読んでみようかな’という気にさせる何かがあるタイプなのは、たぶん、ふつうの人がもつような、‘小説家とは’とか‘小説とは’みたいな固定観念がない人なんじゃないか、それで、作品にダイレクトに向き合えるんじゃないかという気がしている。
 今度の初監督映画も、週刊誌のインタビューだったかに書いてあったと思うのだけれど、なんか、シナリオの書き方の本を読んで勉強した、とか、それから、感心したのは、デッサンのための球体関節人形があるんだけれど、それを使って構図を考えた、とか言っていた。
 映画はつまり写真なんで、監督がカメラの意識をちゃんと持ってるかどうかは、けっこう重要だと思う。たとえば、三谷幸喜の映画が、「the有頂天ホテル」以来は、あんまりうまくいっていないと思うのは、三谷幸喜の感覚が、やはり、舞台のもので、写真のセンスがないのかなと感じることがある。
 それと、松本人志の映画なんか、「R100」の冒頭に、蛍光灯をただ撮るシーンは、明らかに手ぶれしている。「しんぼる」の覆面レスラーの家のシーンもそうだったので、ちょっと舌打ちしたのは事実だった。
 そういうわけで、そのデッサン人形の話を知って、観にいく価値があるんだろうなと思ったのだった。この監督は、「家電芸人」のPC好きでも知られているので、デジカメとかパソコンとかで、画像を扱いなれている感じが随所に見られた。露出をオーバーにしたりアンダーにしたりの細かいところから、望遠で背景を処理して前景をぼかしてる、とか、色温度を落としてソフトフォーカスをかけてる、とか、画面作りに監督の意思が感じられる。
 この映画はまちがいなく、映画として成功している。そのことが面白いと思った。畑違いの芸能人が映画を撮るという甘えがない。たぶん、今の芸能界は、他の職業の世界と地続きにつながっている。それは一時期言われた「芸能人のサラリーマン化」とかとは違い、芸能界であろうと、他の職業であろうと、働く意識をちゃんと持たなければ勝てない、価値観を共有している時代なんだろう、ということが、面白いと思った。
 いい仕事をちゃんとすることが重要で、「昔はワルだった」とか、「不幸な生い立ちで」とか、そういうちっぽけな伝説とか個性とか、そういうの決定的にNGになったな。