コーエン兄弟の新作「インサイド・ルーウィン・デイビス」は、フォークソングの時代を描いた映画と、いちおう言えるのかもしれないが、つまり、ジョーン・バエズの時代、あるいは、ジョーン・バエズがボブ・ディランを見いだすまでの時代なのかもしれないが、なにかしら、不気味でさえあったのは、ひとりの黒人もでてこない。スバイク・リーなら気絶しかねない。画面の隅々までさがせば、どこかにいたかもしれないが、ちょっと思い出せない。
ジョーン・バエズは、「死のような沈黙の中で歌ったこともあった」と、どこかで述懐していたが、フォークソングの聴衆とは、そういうことであったらしい。いま、アメリカ人がポップミュージックを聴く態度を考えるとウソみたいだが、ホントなの。
ボブ・ディランらしき人が最後に登場したように思った。気のせいかと思って、他のレビューをあたってみたら、やっぱり、あれは、「ボブ・ディラン」にみえるようだ。つまり、すぐにもこの世界をぶちこわすだろう「破壊者」の登場で、この映画は閉じられているわけだった。
ボブ・ディランとザ・バンドにブーイングの嵐を浴びせかけていた連中の、老境の回想だとしたら、わたしにはちょっと気味悪くも滑稽にも見えてくる。
「こんな薄汚れた町はくれてやる」というセリフがあるのだけれど、わたしはこの映画全体に、コーエン兄弟の皮肉な冷笑を見てしまう。今や少数民族となった、アメリカの白人たちが、かつてないほど懐古的になっている、その感じを戯画化しているようにも見える。
その意味で、上のセリフなんて、「あの薄汚れた町さえ取り戻せたら」と聞こえてしまう。
読み方が間違っているかもしれないが、介護施設に暮らしている父親に捧げる歌を歌ってる最中に、当の親父は、クソをもらす。
ついこないだ観た、ポール・マッカートニーのNYライブとか、「愛しのフリーダ」とか思い出してみると、ビートルズという革命、ボブ・ディランという革命の、前にあった、小さな、白人だけの世界は、今思えば、グロテスクでさえあるかもしれないが、懐かしがってみてもいいのかもしれない。それを懐かしむこと自体、グロテスクだと、充分に意識しながらであれば。結局、どんな懐古であれ、懐古ってそういうことなんだし。