ウェス・アンダーソン監督の「グランド・ブダペスト・ホテル」。すばらしい。
「ムーンライズ・キングダム」もよかったけど、今回のはさらによい。
わたしは、映画のクレジットロールを最後まで観るタイプなんだけれど、今回、ホントに席を立たなくてよかったと思ったのは、最後に「この映画は、シュテファン・ツヴァイクの小説からインスピレーションを得ました」みたいな献辞みたいなのが出てきて、一瞬なので正確にわからなかったけれど、それは、このホテルのオーナーにして、物語の語り手、ゼロの最後の台詞と考え合わせると、なんかジーンとくる。
もちろん、そんなクレジットを見落としたとしても、そこはかとなく流れている、失われた時代を惜しむ空気は、誰もが感じられるだろう。ギャグに大笑いしながらだけれど。
ツヴァイクの『昨日の世界』を、日本でいえば、吉田健一の『東京の昔』だったりするだろうし、日本映画でいえば、山田洋次の「小さいおうち」のテーマがまさにそれだろう。
あの映画が、ベルリンで賞を獲たとき、レビューによってはその評価が分かれたのも、あの映画の背後にある、失われた時代を惜しむ、哀惜の念を、感得できるかどうかなんだろうと思っていた。
「小さいおうち」に型どおりの‘恋愛映画’を、「グランドマスター」に型どおりの‘カンフー映画’を求めて、それがなければ、他は何も目に入らない批評家がいるらしい。
そういう人たちは、「風立ちぬ」や、「小さいおうち」を観て、‘戦前の日本を美化している’とか言うわけ。わたしとしては笑うしかない。それでも、もし、小声で抗議するとすれば、「今の世界がどれほど美しいと思ってるの?」くらいのことしかいえない。そして「私たちの世界は美しい」と言われてしまえば、ひっこむしかない、苦笑いしつつ。
ウェス・アンダーソン監督が、この映画の登場人物のだれかに自己を投影しているかどうかわからないが、もし、そういう誰かがいるとしたら、エドワード・ノートンの演じている警察官ではないかと思った。この世界を理解しながらも、それが自分のものではないことも知っている。だから、こっそり悲しみを忍ばせながら、これを笑える。
プロットとしては、ある名画の争奪戦なんだけれど、その名画自体は、実在するのか、架空のものかわからなかったが、笑っちゃったのは、そのすり替えに使われているのは、紛れもなくエゴン・シーレで、現代ならそれも相当な名画だぞっていう。
でも、エゴン・シーレがそんな扱いだって云うところに、絶妙な距離感がある。この映画が、ただの懐古じゃないのは、その距離感なんだろう。
それから、‘神は細部に宿る’というけれど、この映画さ、時代によってスクリーンサイズを変えてるんだって。現代のシーンは1.85:1。30年代のシーンでは、1.37:1。60年代のシーンはアナモルフィック・ワイドスクリーンという広いサイズを使用している。言われるまで気がつかなかった。