ラウル・デュフィ

knockeye2014-06-08

 Bunkamuraにデュフィを観にいった。
 デュフィほど音楽を感じさせる画家はいない。これはたぶん言い古されている。でも、それは不思議なことじゃないだろうか。耳には静寂しかないのに、目が音楽を観る。
 私が今までに観たデュフィの展覧会は、ひとつは鎌倉の大谷美術館で、あそこはこじんまりとした美術館だし、もうひとつは東京の大丸で、それはテキスタイルデザインに偏っていたので、今回のように、回顧展というかたちで画業を一覧する企画はなかったから、ごく若い頃の、まだ、デュフィらしくなっていない、海の絵など、初めて観たけれど、特に、青の色は、たぶん天賦のもので、この人はこれから一生、この青色ひとつで、絵描きでいられるだろうと思わせる色だった。
 セザンヌみたいだったり、マチスみたいだったりする時期もあるが、その頃の絵にはまだ音楽は聞こえない。音楽が聞こえ始めるのは、線と色がお互いの束縛を離れて、自由なハーモニーを歌い始めてからだ。
 ポショワールのスタイル画が展示されていたが、デュフィは、ポール・ポワレと組んで、テキスタイルデザインにも本格的に取り組んでいた時期があったそうで、線と色が自由であっていいという発見は、このころ、染色やポショワールで偶然生じる色のずれから、その発想を獲得したんだろう。
 テキスタイルデザインをして、スタイル画まで描いている、となれば、今の感覚でいうと、デュフィはじゅうぶんにデザイナーと名乗れるだろう。
 迂闊すぎたかもしれないけれど、デュフィが‘服’の意識を持っていたことを、遅ればせながら気がついた。服を着た肉体という意識は、美術の世界では、珍しいものであった可能性について、ちょっと考えさせられた。
 もちろん、古典絵画が裸婦ばかり描いていたわけではないが、しかし、服は、絵の世界では、デュフィの直前まで、すくなくとも‘スタイル’でも、‘ファッション’でもなかった。
 たとえば、ミレーの落ち穂拾いに描かれている、3人の女性の、スカートだったか帽子だったかの色は、たしか、なにか道徳的な、あるいは宗教的な「意味」で、当時の人は絵に描かれている服の色をそのように記号的に理解していたらしい。
 デュフィの獲得した‘ファッション’の意識、‘服’という意識と‘音楽’という意識は、つながっているか?、について、考えさせられた。
 たとえば、デュフィ以前、肖像画に描かれている服は、財力を表しているにすぎないだろう。たとえば、王女マルガリータとか。でも、無名のモデルたちが着ている服は、ホントは何を表しているんだろう?。たとえば、歌麿の遊女たちが着ている、流れるような着物の裾だったり、タマラ・ド・レンピツカのキゼットが着ている緑の服とか。
 イメージでは、本来、裸婦と服に意味の違いはない。もっといえば、裸婦と柘榴であっても、裸婦とただの赤い色面であっても、そこに意味の違いはない。見ている私たちが、そのイメージを、勝手に意味に転換しているだけだ。
 デュフィは色と輪郭を分離した。そこに音楽が見えるとしたら、私たちの脳が、音楽をどう認識しているのかについて、なにかしら面白い推論ができそうな気がする。音楽とはけっきょく時間差による音のずれだから。